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つま先立つ

つま先立ちができるようになった。
そんなもの誰でもできるだろう、と思いますでしょう。
わたくしもそう思っていました。が、できていなかったということを知りました。
先ほど、できるようになった、というか、先ほどはできた。明日またやってみたときに、できるという保証はないのですが。

つま先立ちができたので、そうだ、今ならこのままアラベスクにもっていっても脚を前に上げても身体の中のさまざまな位置関係と協働関係は変わらないという確信があったので、やってみました。

案の定。長時間は保てませんが、いつもとは格段に違う。同じことを違うやり方でやっているというより、別物。今日わたしは地球の一部。人間の形にもりあがった大地。

結局、つま先立ちで脚を上げるとバランスが取れないというのは、脚とか形の問題ではなく、つま先立ちができていないということなんでしょうなあ。もっというと立てていない。

今日は、逆立ちも安定していたんですよ。
何らかの理由で、身体の重心探しがうまくいく日なのだと思います。

この数か月のダイジェスト:
足の平の使い方改善
→内転筋群の使い方改善
→下背部に連動(下背部パキパキ音を立て始めたのち、自由度上がる)
→逆立ちがしたくなる
→腕・背中の接続、側筋が使えている状態を認識できるようになる
→つま先立ちできる
→アラベスクできる

もっと細かい細かい気づきがたくさんあるんですけれども、流れはこんな感じですね。
来るときは、一度にいろいろきます。

いわゆるバレエのバーレッスンは身体意識を鍛えるにはものすごく有効ですが、バレエの技術としてではなく、身体技術として伸びたり上げたりができるようになりたいのであれば、身体意識を上げまくり、立ち方を研究するのがいいんじゃないでしょうか。
立ち方が見つかると、いろいろなことが一度に一斉にできるようになるような気がします。

脈略なく見えるでしょうが、今日の私にとって踊りとは
普通のひとりの人間のサンプルとしての私の体を供すること。投げ出すこと。

オリンピックの選手の身体も供されていると思うのですが、あのように「特殊な訓練を受けたら人間はここまで到達できる」という供し方ではなく、悲しみにも悩みにも小さな喜びにもまみれた普通の体、思考も、不具合も、老いも、消化も、排せつもごちゃまぜになった体を供したい。サンプルになるにあたり、いがらっし個人の生活習慣による身体の癖をなくしたい。一般性をもつために。

つま先立ちができることと、私にとっての踊り。
わたくしの中では脈略がないどころではく、まさに同一のことです。

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