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後付けの言語化だけで満足してはいけない

成果物の言語化をするような評論家的な活動のことを「後付けの言語化」と呼ぶことにする。

これはあんまり意味がないと思っていて、なぜなら重要なのは作者がどんなプロセスでそれを創造したのかを考えることにあるから。

成果物は長い積み重ねの氷山の一角に過ぎず、それを言語化することも同じ。

作品を要素分解して、「この条件を満たせばヒット作がつくれる」みたいな公式を作ってもうまく扱えないのは、作者の思考回路、視点に着目していないから。

で、その視点というのが世間に共有されないのは、作者自身も普段どんな視点で物事を自分が捉えていることが多いのか自覚するのが難しいからなんじゃないかというのが僕の仮説です。

思考の癖レベルで他者と自分を比較するような経験は、その人と長い付き合いをしないとわからないですから。


結局のところ、僕らは言語化だけで安心することなく、高い集中をもって作品と作者と対話し、その発想の深淵に近づくよう努力するしかないのだと思います。

その人を超えたければ、その人そのものではなく、その人が見ているものを捉えるべし
みたいな話でした。

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