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日本のポップカルチャーと多神教的思想の関係について考察してみた

皆様いかがお過ごしでしょうか。イガなおです。

先日、animate池袋本店に行って参りました。
当たり前ですが、今まで行ったanimateの中で一番大きく、また活気に溢れていました。
(学生さんが多かったです。オタク特有の早口な喋り方も耳に入ってきて、なんだか懐かしい文化を感じて、優しい気持ちになりましたまる)

最近ずっと、世界と戦うにあたり「日本の強み」について考えているのですが、その中で外せないのが"日本のポップカルチャー"だと思います。
クールジャパンというやつですね。


今回は、なぜ日本のポップカルチャーがここまで発達したのかを、日本の多神教的文化から考察してみます。


日本は「概念を可愛いものに記号化すること」が得意

animateにて、陳列されている漫画・ライトノベルを見てみると、多くの作品に共通している事として、
「様々な概念を"可愛いもの"に記号化する」
ことが挙げられます(記号化自体は漫画表現の特徴ですが、中でも、"可愛く"表現することに日本は長けているのではないかと)。

少年漫画やファンタジー系では、ドラゴンや悪魔といった「超常のもの」をキャラ化し、時には人間と会話させることで、親近感をもたせています。
また、少女漫画やラブコメ系も、「理想とする異性像」を親しみやすい形にデフォルメしています。

さらに、日本は「萌え系」の作風を得意としておりますが、ここから、「可愛く記号化する」ことが得意であると推測できます。
海外でも「kawaii」は有名な日本語ですね。

では、何故、日本は"kawaii"ものへ見立てる能力がついたのでしょうか。


日本において、神と怨霊は紙一重

古来の人類は、当時不可解だった現象(地震や雷といった災厄等)を、何か超常の存在(神や悪魔)によって引き起こされていると考えました。
ここで、超常の中でも悪いもの(悪魔)に対する考えが、西洋と日本で異なります。

西洋では、その一神教的思想から、神と悪魔は完全に2分され、対立関係にありました。従って、悪魔はずっと悪魔のまま、神にはなり得ません。

一方で、日本では、その多神教的思想から、人が死ぬと神か怨霊になるとし、神と怨霊(≒悪魔)は表裏一体のものと見なされていました。

災厄が起こるとそれは怨霊のせいとされ、それを祀り上げることで怒りを鎮め、神(善きもの)に昇華することが出来ました。
祀れば神、祀らざれば怨霊、という考えです。
神と悪魔で完全に2分している西洋とは、「相互変換できる」点で大きく異なります。

このような背景により、日本では災厄をもたらす怨霊であっても、祀りあげる(無害化する)機会を作るため、一旦身近なものとして捉える文化が生成されました。

僕はこれが、「妖怪」という概念なのだと思っています。

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上の画像は、鳥山石燕が描いた天井下(てんじょうくだり)(上)と骨傘(ほねからかさ)(下)という妖怪です。

本当に心の底から忌み嫌っていたら、こんな可愛く描かないと思いませんか笑
(天井下に関しては、「現れるだけで無害」らしいです(ウィキペディア調べ)。じゃあなんやねん笑)。

ちなみに、これの現代版である日本の漫画が、吸血鬼をテーマとした「ヘルシング」や、ドラゴンをメイドにしてしまった「小林さんちのメイドラゴン」という位置づけだと思います(エ゛ェェイ゛ィメン゛ッッ!)。

このように、日本は「不可解な現象に親近感をもたせる」ことに長けていて、それは多神教的思想に起因すると考えられます


「驚異と共存する」強みを生かすとしたら

"打ち勝つ"西洋に対し、"共存する"日本とも言い換えられます。

この強みを問題解決に生かすとしたら、何に使えるだろう、ということを徒然なるままに考えてみる。

コロナ禍は『打ち勝つ』アプローチに軍配が上がります。
どうやら、"共存"のアプローチは「完全に無くすことは難しいので、折り合いをつけて共存しなきゃいけないもの」に対して有効なようである。

僕は『負の感情』だと思う。

僕自身、まだ完全にイメージ出来ていないが、様々なものに価値が付き始めている現代において、このあたりの日本の『再定義力(見立てる力)』が大きな武器になりそうな気配を感じている。

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