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マイノリティはマジョリティに寄り添ったほうがいい

多様性について考えてみる。


多様性は尊重すればするほどコストがかかるのでどこかに限度を設けないといけないなあとぼんやり思っています。


パンが欲しいという人と、お米が欲しいという人の意見をどちらも尊重して両方つくるほうが、パンだけつくるよりもコストがかかる。

折衷案として「お米パンをみんなで食べよう!」が合意形成されたとしても、その「話し合いのコスト」がかかる。

当たり前ですが、多様性を認めれば認めるほど、どんどんコストがかかっていくんですね。

かといって、多様性がなさすぎるとそれはそれで、生物学レベルの種の存続的にも、社会レベルの技術や文化の発展的にも脆弱な構造になってしまうわけで。

異なるもの同士がぶつかるところに新しいものが生まれますから、多様性と進化速度は相関がありそうです。

まあマジョリティ(今の社会と自分の特性が合っている人たち)が本当に進化を求めているのかっていうのは別の疑問としてあるんですが。。


それじゃあ、どこのラインに多様性の目標値をおくのか、という問いが生まれると思うのですが、
これに対しては、まず必要な多様性とそうでない多様性に切り分けるのがよいのではないかと思いました。

それで、「必要な多様性」っていうのは、それがあることで回り回って「マジョリティの生活が良くなるかどうか」という判断基準で決められるものではないかと。

例えば飛行機とかスマホとかは、社会の中でトンがった人たちがいたから生まれたわけですが、結果としてそれによって生活がよくなったと認識されている発明だと思います。

社会主義国家が資本主義化していく流れも、やっぱり「生活レベルが上がるから」も大きいんじゃないかと(政治のことは不勉強で、他にも理由あるんでしょうが)。


なので、冒頭に戻ると、多様性が生むコストに対しては、多様性に限度を設けるのではなくて、「マイノリティがマジョリティに寄り添う」が答えになりそうですね。問いが変わりました。

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