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なぜ僕はIT化にいらつくのか

皆様いかがお過ごしでしょうか。イガなおです。

今日は、「なぜ僕はIT化にいらつくのか」という話を書く。

社会のデジタル化前の、上の世代の人は勿論、今の若人にとっても、心の中のどこかにある琴線に触れる話ではないかと思う。


結論から言うと、僕がIT化にいらつく原因は、

言語が増え、さらに確率論によってその言語が正しいという常識が形成されるため、自分自身から発せれられる言語が脅かされると感じるから

だ。

ここで言う言語とは、言葉に限った話ではなく、「アナログな生データを抽象化し、ある次元で抽出したエキス(デジタルデータ)」という、より広義の意味で使っている。
(無論、詩などの芸術表現においては多次元的な言語があるが、ここでは他の解釈の余地のない言葉に対して問題意識をもつ)


昨今のIT化によるSNS等の情報共有の加速、あるいはビッグデータ活用によって、ある問題に対する最適解が導きやすくなったことは、人類の大きな進歩と言えよう。

ここで、「AIでは問題解決が出来ても、そもそも解くのはその問題でよいのか、という課題設定がおざなりになってしまう」というような目的的思考を吐露するつもりはさらさらない。

僕の感じている問題はもっと個人的な、
なんでお前が勝手にデータを切り分けてるんだ。その楽しみは僕のものだ
という、無数の変数が眠るアナログデータを自分の頭で解釈して意味づけをする楽しみを、AIに奪われるに違いないといった、いわばITに対する嫉妬なのである。

単純に 考えれば、クレバーに「AIが得意なことと、人間が得意なことを明確にし、役割分担していこう。そうすればいい社会になっていく」と なるのだが、 実際のところはデータがAIが導いた答えに人間の持つ発想や視点が引っ張られていると感じる。
世界が抱える問題の解決が近づくとしても、それは人間にとってより良い世界になっていると言えるのだろうか。

こうしたIT化への問題提起は既に擦られ倒している所であり、解決策としてデジタルデータの中に身体性やアナログ感を感じようとする人もいれば、アナログデータ(自然)に回帰するための生活の余白を意識的に作ろうとする人も出て来始めているであろう。

しかしながら、 未来が現在からの地続きになっているとしたら、 現状の世界を見る限りそうした人は少数派で、多くの人はデータの波に流されていく。

自分の身の回りの人間たちからそうした人間性が低下していく様は、非常に悲しく、 寂しいことであると思う。

人間が社会的な動物である以上、個人の思考が言語、慣習、文化に引っ張られることは避けられないが、IT化によってそうした「共有の負の面」が加速している事は、僕個人が重視する個人主義、人間主義に逆行する形となっている

「そこをロボットに委ねてどうすんねん。そこが一番面白いところなのに。」といった気持ちである。
経営者が戦略コンサルを活用することに対する疑問にも近い。


自分個人の意識を変えることは今この瞬間に可能であるが、僕は欲深いもので、周囲の人間にもそれを求めてしまうのである。


こんな「人間とITの対比」をつらつらと考えているうちに、類似している関係性をもつ別の事象からヒントが得られないかと思った。

「人間とIT」。言い換えると、「アナログとデジタル」、「閉じた系と開いた系」、「個人と社会」、「発酵と共有」といった所で、
面白いと思ったのは、「島国と世界」だ。

デジタル化による共有の加速は、航海技術の発達による世界の接続とリンクしており、そのオルタナティブな動きに鎖国という形で反発した島国日本の歴史、文化から、参考になるものがありそうな気がしてならない。

今、日本文化が世界に注目されているのも、根っこの所ではこうした大きな背景があるのではないだろうか。

かなり風呂敷を広げたが、そんなこんなで、しばらく日本文化について研究してみようと思う。

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