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憩いの園としての「#うたつなぎ」~インターネットのちいさな家~

うたつなぎが、めちゃめちゃ溜まるのだ。

うたつなぎ、とは、正式には「#うたつなぎ」と表記する、Twitterのハッシュタグ企画の事だ。現在世界中を席巻する疫病騒ぎの渦中でひととの交わりに飢えた人々が、SNS上で幾つものハッシュタグを新しく生み出した。その多くは一定の層には懐かしい気持ちすら湧き上がる、いわゆる“バトン”と言うヤツで、「#見たひともやる」みたいなアレが生まれては消え生まれては消え、ともだちの決して多くない僕も幾つか楽しんだわけだが、「#うたつなぎ」もそのうちのひとつ、しかしこれは僕のようないち小市民ではなく、ミュージシャン達のサンクチュアリと化している。

一体何処から始まったものなのか始祖となったレジェンド・オブ・うたつなぎは一体だれなのかすらいざ知らず、多くのミュージシャンが「#うたつなぎ」をつけて音源をアップした。三密回避ムーブの影響でライブ自粛が延々と伸びる味気ない日々の欲求不満や憂さをぶつけたご自慢の歌声に、仲の良いミュージシャンや憧れのミュージシャンへのバトンをくっつけてネットの海へ放流する。

自分の歌を歌う者、ひとの歌を歌う者、バトンがまだ回ってきてないのに歌う者、そのためにわざわざ新曲を作る者。色々いるが、どの投稿も粒ぞろいでそれぞれの歌心がぎゅっと凝縮されていて、ライブハウスの埃っぽい匂いすら忘れてしまいかける程飢えた獣の我々としては嬉しい事この上ない。どれも正に垂涎だ。

それどころか「#リフつなぎ」「#ベースつなぎ」など、うたつなぎの付随企画まで次々生まれ、最早「※類似品にご注意ください」レベル。敬愛するKEYTALKのギター小野武正氏なんか、自分で自分にバトンを回す「#わしつなぎ」を毎日コツコツ続けており、最早愚直なる狂気と言う感じだ。まことに嬉しい悲鳴である。そんなこんなでうたつなぎ及び付随企画、喜ばしい事に大変追いかけきれない。どんどんブックマークに溜まり、視聴と“いいね”が追いつかない。

周囲の奇特な音楽好き、バンド好き、邦ロックオタクの友人やTwitterのフォロワーの間では話題を通り越して最早日常の一部と化しているうたつなぎだが、そう言えばテレビやWebニュースなどではあまり見かけた事がない気がする(※僕調べ)。無論、僕調べなので大きな見落としは否めないが、今のところの印象としてはうたつなぎはうたつなぎでも親衛隊がアツい有名アイドルや年季の入った元アイドル様などが参加している「アイドルうたつなぎ」や、今や日本で知らぬひとはいなかろう「うちで踊ろう」ぐらいだし「ぼくしらべ」ってちょっと「うたつなぎ」と語感が似てるね。

閑話休題。Twitterやインスタ、今やひとによっては生活必需品と言っても過言ではないSNS、そしてインターネット。これを僕は、広い世界へとつながる扉だと思っている。特に最近のステイホームな風潮、家にいるだけで誰かの命を救う事に繋がるなんて引きこもりタイプな我々のような人種からしてみたら天国なことこの上ないのだけれど、僕が住むのはまともな作業部屋もない築ウン十年のボロマンションだ。しかも家族と同居。昨今のエンタメ業界の縮小ムードの煽りを受けてしっかり休業状態へと追い込まれてしまった現在、ヘッドホンしてひっそり音楽を聴いていようと、配信ライブを観ようと、今こうして文章を書いていようと、ふと視線を上げれば手の届く範囲に、オカン。常に傍らにオカン。ビレッジマンズストアを聴いていても、水野ギイ氏のハスキーボイスの向こうからオカンの声。「洗濯物畳んだからとっとと仕舞いな~」うっせぇ後でやるわボケ!!!!!!!!!(※言いません)(※メンタル中学生)

ずっと家族と一緒にいると息詰まらない? 僕は息詰まる。めっちゃ詰まる。そんな時に、スマホの画面を覗くだけで日本中、世界中の仲間達が今確かに生きていて、ひたむきに生活をやっていて、好きなものについて一生懸命話している。それを見る事が出来るだけで僕はとても幸せで、自由な気持ちになれた。こう思えるようになるまでに、インターネットとの距離感を一生懸命時間をかけて図らなければいけなかった時期ももちろんあったけれど、今となっては紛れもなくインターネットは僕にとって、息の詰まる現実から広く開かれた世界へと連れ出してくれる扉に違いないのだ。

でも一方で、一昔前まで同好の士が集まるアンダーグラウンド扱いだったにも関わらず、今の時代のインターネットは誰もがアクセスする事が出来る、メインストリームの集会所でもある。世界中のニンゲンが一瞬でアクセスし合えるその長所は勿論僕みたいなアングラ気質なオタクだけでなく、メインストリームで問題なく生きていけるリア充陽キャの皆さんも享受出来るものなわけで。特に最近思うのは、この外出自粛期間の“STAY HOME”ムーブメント。あれっお前さっき引きこもりタイプの自分からしてみたら天国なことこの上ないって言ってなかったっけ? どの口で言ってんねや武士に二言はないやろ!? とお思いなことでしょう。それは違いないのだが、何しろ僕はひねくれものの天邪鬼だ。みんなでつながろう! 直接会わずに手を取り合おう! それが誰かの命を救う! それが世のためひとのため! みんなで乗り越えよう!ニッポン!!!!!!!!! なんて勝手に盛り上がられると、正直勝手にやってろやボケナス、と思ってしまうのだ。

「みんなで頑張ろう」。良い言葉だ。世界のセレブや有名人著名人が盛り上げるステイホームムーブメント、そこにある気持ちは決して偽善なんかじゃなく、それぞれの優しさや正義なのだと言う事はわかっているつもりなのだけれど、正直僕は、そのある種慈善事業的なムードに馴染めない。物書きとしてこう言う場で発信している人間としては最低かもしれない。そう、最低かもしれない、僕は。無数のひとびとの優しさや真っ当な想いを素直に受け止められない。そんなひねくれものの天邪鬼である自分自身への罪悪感までもが、傷口から滲み出す血漿のように溢れてくる。かさぶただらけの天邪鬼は、ピュアな善意の洪水で窒息しそうだ。傷口に水が染みて息も出来ない。そっとブラウザを閉じる。

そう言えば子供の頃から、文化祭だとか発表会だとか、学生時代のレクリエーションなんかでも、必要以上にスケールがデカくなるとちょっと退いちゃうタイプのねじくれたガキだった。母校では毎年合唱コンクールがあって、クラスの目立ちたがり野郎(こういうヤツは大体別に真面目なわけでもないし懐が深いわけでもない、声だけバカでかいだけのヤツである)がリーダーを買って出るのだが、クラスメイトの都合ガン無視の練習スケジュールを組んでしまって全員から総スカン食らったりしていた。そんな様子を教室の片隅から見て、やーいアイツ、出来もしねえ事買って出なきゃ良いのにな、バカでぇ、と思っていた。
でもその一方で、ごくごく仲の良い友達とは自主製作映画を撮ったりなんかもしていたし、3年程勤め上げた図書委員の文化祭での展示には終業時間を過ぎても打ち込んだっけ。つまりは、でかいムーブメントに首突っ込むのは面倒くさいしシャクだけれど、バカ騒ぎするのは好きなのだ。なんて面倒くさい性格なのだ。

でも、僕みたいな面倒くさいひねくれものも自分の居場所を見つけ出し、市民権を得られるのがインターネットが元来持っていた素敵なところだったように思う。自分が身を置く環境のディテールを取捨選択し、自分の部屋のようにカスタマイズする事が出来るのだ。

例えばTwitter。SNS界最強に厄介だけれど、一方で最も自分の部屋をカスタマイズしやすいとも言えるツールだ。ブロックやミュート機能も使えるし、テキストを介して自分と気が合いそうな、近しい部分のある部屋を設けているひととだけ積極的に交流する事も可能。キラキラ☆ステイホームライフを過ごしている意識高い系人種なんか早々いもしないし、“いいね”の数もリツイートの数なんかも気にしなきゃいい。現実の世界にはブロックもミュートもないし、意識高い系の同僚や上司に心乱されて無駄に焦ってしまうというひとも少なくないだろう。

昔、『リコちゃんのおうち』と言う絵本が好きだった。

酒井駒子さんと言う方が描かれた、とっても可愛い絵本だ。まだちいさいリコちゃんは、ちょっと乱暴者のお兄ちゃんに遊び場を追い出され、お母さんにも遊びを邪魔されてしまう。落ち込んだリコちゃんを見かねたお母さんは、リコちゃんにダンボールの箱を与えるのだった。ハサミを使ってちょきちょきと、ダンボール箱にちいさな窓を作るお母さん。そこに布を1枚敷くと……なんということでしょう、何の変哲もない箱だったダンボールが、リコちゃん専用のミニチュアハウスに変身してしまいました!
……ちょっとふざけたが、僕はこの絵本を読んで以来、ミニチュアの家やジオラマが大好きになり、自分だけの部屋を持つのが長年の夢となった。ミニチュアハウスサイズの小さなぬいぐるみの仲間たちを招き、ちいさなテーブルでお茶をして、椅子の上におうちをのせて2階建てに仕立てたりと工夫を凝らして自分だけのオリジナルのおうちを楽しむリコちゃんの発想に瞳を輝かせ、毎日ページを捲ったものだ。
インターネットには、そりゃあ必要な情報も沢山あるけれど、その“必要な情報”のなかには胸が苦しくなって目を逸らしたくなるような事柄だって沢山ある。心に余裕があればしっかり向き合う事が出来るけれど、ちょっと難しい時だってあるのが人間。大きな流れには乗り切れないけれど、インターネットにいた方が気が楽。そんな僕達はリコちゃんみたいに、ネットの庭にダンボール箱を用意して、可愛い端切れや瓶の蓋、人形サイズのティーセットを用意してオリジナルな居場所を作ればいいのだ。

そんな事を考えるきっかけになったのが、件のうたつなぎについて、とあるフォロワー氏と話していた時の、お相手の一言だった。
その時丁度、「うちで踊ろう」があまりよろしくない感じで話題を集めてしまっていた時期だった。やはり今特に注目を集めている、誰もが知ってるミュージシャンが立ち上げた企画となると、いわゆる権力、とでも言うべき存在からも注目されてしまう可能性も高いのが常だ。万一うたつなぎも同じような事態に見舞われてしまったら……なんかヤだよネ……という、いち音楽ファン同士のやり取りの中で、そのフォロワー氏はうたつなぎを「憩いの園」と言い表した。僕はその言葉選びを、とても綺麗だな、と思った。

多分、うたつなぎはリスナーである僕達だけでなく、そこで表現をする歌い手にとっても「憩いの園」だったんじゃないかと思う。

歌手やミュージシャンだけでなく、表現者にとって表現する事は仕事である以前に、生活に必要な娯楽だし、人生に必要な生きる意味だし、もっともっと、そのひとの人格のより深い部分に根を張った執着のような感情の対象だったりする。最近擦り切れる程観ているビレッジマンズストアの配信ライブのなかで、マイクを手にした水野ギイ氏が叫んだ、「こんな楽しい事やめられるかよ!」と言う言葉が脳裡を過る。誰にやめろと言われても、どんなに自分がやめたくっても、そう簡単にやめられるようなもんじゃないのだ。

勿論、リスナーである僕達を楽しませようという想いも大きかろうが、彼等にとっては生理現象にも近い“歌”を、今出来る最大限の方法で衆人の耳へと送り出すと言う行為は、きっと彼等自身のエゴでもあるんじゃないかと思っている。「エゴ」と言う言葉にはあまり良くないイメージを持つひとの方が多そうで、誤解をされてしまうのではないかとも思うが、少なくとも僕は、ネットに何気なく投げ出された彼等の歌に宿る尊さは、そこにエゴがあるからこそのものなんじゃないかと感じている。
ミュージシャンはそれぞれのエゴによって、ちいさなこだわりの家を建てる。それは『リコちゃんのおうち』のような、自分だけのオリジナルな居場所だ。次いつライブが出来るのか、この生活はいつまで続くのか、心も、懐も、どんどん乾いていく、そんな不安でいっぱいの毎日を少しでも健やかに生き抜くために、彼等はご自慢の音楽を駆使してインターネットにちいさな家を建てる。
彼等が建てた家があるのは「#うたつなぎ」という名の庭の中だ。その門はリスナーのために開け放してある。ひっそり歌を世に送り出したければ庭の片隅に家を建てるし、お隣さんと仲良くしたければ話しかけてみる。もしも庭に家を建てた友達にお前もどうだと誘われたとしても、今は気分じゃないかな、と思ったら断ってもバチも当たらない。勿論誘われてなくったって、勝手に庭に入って家を建て始めても誰もうるさく言わない。みんなでつながろう! ステイホーム!!! のお意識高いキラキラ感とは無縁の、肩から程良く力の抜けたゆるいつながりがそこにはある。
憩いの園ではどう過ごそうが自由だ。その自由さが、僕の目にはとても尊い。

最近は「みんなでこの状況を乗り越えよう」系の、ある種チャリティのかほりのする楽曲も沢山生まれた。でもね、別にね、歌い手の誰もがステイホームに因まんでええのよ。愛しい恋人にも、大切な友達や家族にも会えないんだ、歌の中でぐらい三密なんか無視して良いと、それこそが表現の面白さだと僕は思う。こんな時こそ今すぐ家の窓から抜け出して深夜2時君のベッドに飛び込んで嫌になるまでキスしてやるぜベイベーって歌うのがロックだと思いません? ちがう?

僕なんかが改めて言う必要などない程に、今、みんな必死で生きている。ただ毎日生きる、をやっているだけですぐにしなしなになってしまう繊細で可愛い自分の心を守ってやるためには、きっと憩いの園が必要なんだろう。だからさ、犬撫でて珈琲飲んでるような偉いひと達に大切な庭を荒らされるわけにはいかんのよ。そう考えるとつい、僕達の「#うたつなぎ」はテレビなんかに注目されなくて良かったな、なんて思ってしまうのだった。

さあて、このブックマークに溜め込んでしまった夥しい数のうたつなぎ、次はどれから鑑賞させて頂こうかしら。

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