『心。』理由付けか新根の強さか vol.847
久しぶりに自己啓発系の本を読みました。
同僚の国語科の教員も読んだことがあるそうで、その方の意見では少し昭和のような感じも残っているようなとのことでした。
実際に読み終えてみると、なるほど確かにそれも一理あると感じました。
ただ、発行年月日は以外にも2019年と新しいようです。
この本と今このタイミングで出会ったのには何か理由があるのか。
そんな風に私自身も少し理由付けをしようと考えてしまっています。
今日はこの本を読んでの感想を書いていきます。
日常五心忘れるべからず
この一冊の中にあるのはこの日常五心だなとしみわたりました。
どこか根性論のような気質も感じなくはなかったのですが、その疑いの心を持つこと自体がもったいないことなのだろうと思います。
どこか揚げ足をとってやろうと思いながら読んでいた自分自身が恥ずかしく思います。
最終的に結局根性論かと思う部分もあるのですが、それだけではない大きな心構えがこの本の基本には大きくどっしりと構えているように感じました。
それがこの日常五心だと思います。
人生のすべてに意味がある、人のために尽くす、今置かれている状況に常に感謝。
本にも書いてある通り、どれもこれも口では言えるし、頭でも分かっていると思いたい部分があります。
しかし、それを五臓六腑に染みわたらせ骨の髄まで理解するにはとてもじゃないですけど、時間と日々の魂の鍛錬が必用なんだろうなと実感しました。
幸せとは喜びとは、どこにゴールを見据えるのか
まさに悟りともいえるのかもしれませんが、それでは自分の幸せとは喜びとは?魂が磨かれた先にある者とは?
例えば誰かにこれを実践しろと勧めるときに、「どうしてそんなことをしなければならないのですか?」と問われれば口を噤んでしまう気がします。
なんと説明すればよいのか、、、。
例えば、幸せを手に入れられるとか、魂が磨かれるとか、究極の自己研鑽だと言っても、どれもこれも抽象的で実体がなく実感も得られないように感じます。
そんなものを苦労してまで目指した方がよかろうとどのように伝えられるのか。
そんな疑問が浮かびました。
みんなが幸せ、自分も幸せ、人としての道理も通っている、現状ですでに満足であるという人がいたときは?
いや、もしかしたら、そういう人はすでにこういった実践をくり返しているのかもしれません。
逆に自分が壁に立ち向かっているとき、今その瞬間に自分自身を磨くときなのかもしれません。
誰のため?自分は満足、なんでやる必要がある?
私は今組合の委員長をしていて、それなりにちょっと事務的に忙しいときもあります。
でもそれ以上に、組合として要求をしたり職場をより良くしようと動けるはずなのに、そういった動きや声は全く上がってこないのです。
私自身は今の働き方に十分満足していますし、改善を求めるようなこともありません。
むしろ、委員長として学んだことも多分にあるので、もう十分すぎるかなと思うくらいです。
だから、つい先日までもう来年度はやる気は全くない、この職場の誰かのためにはたらくという気が一切ないと宣言し降板を伝えました。
それでもこのタイミングでこの本に出会い、それと似たような話を何箇所かで耳にする機会があったのです。
これは私自身が試されているのでしょうか。
それでも来年度も、この職場の誰かのために何かをしたいという気持ちが湧きおこらない中でこの職を続けてもいいものなのでしょうか。
もう数年前の意気込みは沈静化され、正直今の職場はどうでもいいという気持ちが大きくなっているのです。
それでもやり続ける必要はあるのでしょうか。
非常に頭を悩まされている現状です、、、。
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