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『ソクラテスの弁明』無知の知とは一体? vol.180

ソクラテスの弁明を読みました。初めての岩波新書の青い本。

若干苦戦しましたが、内容や時代背景をある程度理解してから読んでいたので、割と抵抗感なく楽しめて読めました。

所々に出てくる言葉使いは難しいものも多く、その度に内容理解の波を止められてしまってはいましたが、自分の理解できるギリギリのところで文章が構成されているので、頭のいい体操になります。

『ソクラテスの弁明』は、何巻か続く本の中での一部なのですが、最もソクラテスの人となりを表している箇所になります。

教員採用試験で習っていた表面的な、「無知の知=ソクラテス」の知識に大きな背景知識と、根底にある思考が追加補正されます。

ソクラテスは屁理屈親父!?

詭弁

ざっと全体を読んでの印象は、ソクラテスというとにかく屁理屈のような理論武装をしている親父が、その弁論を武器に戦っているその模様を感じました。

しかし、実際にはソクラテスは全くもって自分の考えや行動を強要するようなことはしておらず、相手の言動や行動について問いを立てることで、論破をしているのです。

まさに問答法と言われるものでしょう。

このように自分の発した言葉のちょっとしたずれを問われるわけですから、受けている側からすれば屁理屈のように感じてしまうのも無理はありません。

論破というのもおかしいのかもしれません。

彼は自分の無知を理解した上で、他者の意見を尊重し、その中から自分が理解しきれていない部分を、理解しようとしているのでしょう。

屁理屈ではなく、探究心、追求心の塊。

それがソクラテスなのです。

答えは自分の中にある

自分を見つめなおす

では、ソクラテスは何が言いたかったのでしょうか。

ソクラテスがこのように、あらゆる人に話をして問答ともいえる対話をするようになったのは、神からのお告げの後、自分自身と深く対話したからです。

自分の中に答えはあるのか、自分の中にどんな知見が眠っているのか、とことん探した結果、自分は何も知らない、自分は無知であると気づいたのです。

世間の評価としては、ソクラテスは聡明であらゆる権力者を説き伏せているという印象を持つかもしれませんが、ソクラテスは自分で考えて分からなかったことをひたすら聞いて周っているのです。

自分が分からないからこそ、とことん考え、ありとあらゆる考えに触れ、脳みそに汗をかき続けてきたのです。

これこそが、無知の知です。

自分の無知を知ったときに、初めて学びは始まるのです。

絶対的な信仰、信ずる強さ

御嶽山

では、どうしてソクラテスはここまでひたすらに一つのことをやり続けることができたのでしょうか?

それはソクラテスが神を信じていたから、そして自分を信じていたからです。

ソクラテスが人に聞き始めたのは、神からのお告げがきっかけというだけで合って、聞きまわりなさいとお告げを受けた訳ではありません。

神から、お前は一番賢いと言われ、その言葉に敬服し、自分への疑問と向き合い始めたところから始まったのです。

そして、自分の行動を信じ続けたのです。

その、信仰の強さがソクラテスの弁論術を生み出したのです。

ソクラテスは非常に優れた人物のように感じますが、やっているのは本質的な部分を見つめなおしているだけなのです。

ソクラテスのように、自分自身と見つめなおし、そして当たり前とされていることを、深堀りして本質的な部分を見つけ出す視野を広げていきたいものです。


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