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『コーダ あいのうた』見えない世界でも見える世界にできる vol.321

先日の「第94回アカデミー賞」で作品賞、助演男優賞、脚色賞の3部門を受賞した話題作を見に行きました。

心温かくも自分の理解の枠がいかに狭かったのか、そしてそこから生まれる苦悩をどれほどわかっていなかったのかも思い知らされました。

そして、家族愛の尊さ。

これは、心を揺さぶられると同時に自分の考え方を見直すきっかけにもなる大切な作品です。

海の町でやさしい両親と兄と暮らす高校生のルビー。彼女は家族の中で1人だけ耳が聞こえる。幼い頃から家族の耳となったルビーは家業の漁業も毎日欠かさず手伝っていた。新学期、合唱クラブに入部したルビーの歌の才能に気づいた顧問の先生は、都会の名門音楽大学の受験を強く勧めるが、 ルビーの歌声が聞こえない両親は娘の才能を信じられずにいた。家業の方が大事だと大反対する両親に、ルビーは自分の夢よりも家族の助けを続けることを決意するが……。

https://eiga.com/movie/96041/

聞こえないから手話?表現するための手話

家族の中で唯一耳の聞こえるルビー。

しかし、耳が聞こえはするものの家族全員が聞こえなかったから、彼女にとってはずっと手話がコミュニケーションのツールだったのです。

だからこそ、彼女にとっては一番自分の思いを伝えやすいのは手話。

それは、彼女が歌うとはどういうことなのか、歌うとどんな気分になるのかといったところを表現する時に現れていました。

体の前で手で空間を作り、それが下に落ちていく、腕の上を2本の指が歩き、ふわふわと空に舞っていく。

今でもあの手話の場面は鮮明に浮かびますが、その意味はわかりません。

これは私たちに与えられた思考の幅の楽しさなのでしょう。

相手に物事を伝えるための手話は、漁港がピンチになるにつれて健常者との意思疎通のツール、ルビー自身が道具のようになっていってしまうのです。

そこに違和感と憤りをルビーは感じたのでしょう。

それ、知ったかぶりだよ

この物語の中で、聾者として家族は出てきます。

世間的に見ても、体にハンディを背負っている人に対しての印象は変わってきてはいるように感じます。

だから、聞こえないといっても筆談だってできるし、手話である程度伝わるものは伝わるだろうと浅はかな考えでいました。

しかし、それはあるシーンでガラッと変化します。

ルビーが発表会に出演する日。

いよいよ、その歌声を楽しめると思った時でした。

世界は一気に聾者の世界になりました。

音がいっさいなくなったのです。

そして、見えるのは観客の顔、動作、口の動き、、、。

正直、映画の見せ方としても鳥肌が立ちましたし、自分の理解度の低さにとことん嫌気がさしました。

共感できたとしても、共感できている気になっているだけだったのかとあらためて思い知らされました。

互いに理解をするから分かる、寄り添える

それでも、お互いに理解できる方法はあります。

ルビーの父は、ロックが好き。

それはベースが響いてくるから。

そう、音を振動としてなら感じ取れるのです。

夜空の下、父はもう一度ルビーに歌ってくれるようにお願いします。

そんなルビーの口元をしっかりと見て、扁桃腺に手を当て、振動を感じ取りながら、その歌を汲み取る。

これは、まさに父が歌というものを理解した瞬間だったのではないでしょうか。

ルビーもまた同じく、父親を理解するために試験の際に手話を使って思いを届けます。

この互いに理解した瞬間が、きっと一番この歌を認められたところなのでしょう。

非常に作り込まれて、考え抜かれたこの映画。

久しぶりに映画館で観ましたが、鳥肌も涙も誘ういい映画でした。

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