『人形の家』見えざるところで見える人間性 vol.697
私が読む上で苦手としている舞台本。
今回の本は『人形の家(イプセン)』。
以前読んだ本と比較すると登場人物も少なく、話も分かりやすかったためにサクサクと読むことができました。
ただ、改めてその時代の背景や文化などを聞いてみると、意外と分かっていなかった部分が見えてきたりと視点を変えて本を楽しめました。
今日はこの『人形の家』を読んでの感想を書いていきます。
「あたしは何よりもまず人間なのよ」
この本を読んでいて感じる違和感、それは最後の最後にはっきりとしてきます。
ノーラの一言「あたしは何よりもまず人間なのよ」
一見、平和でこれからもうまくいくように感じていたヘルメルとノーラの家庭。
最後のところまで何だか互いにコソコソしている感じがする違和感。
それは、ヘルメルがノーラを女性として、1人の人間としてみていたのではなく、自分自身の思い通りに動く人形のように思って接していたからこそのものだったのです。
つまり、ヘルメルはノーラに自分の理想を意識的か無意識かのうちに要求をし続け、ノーラはノーラでそれを肌で感じて演じ続けていたのでしょう。
その変な雰囲気が本からも滲み出ているのでしょう。
絶望的状況にこそ本性が現る
最後の最後でノーラはその状況に気づき、奇跡にかけました。
ヘルメルが自分自身を本当に愛しているのかどうか、自分は本当にここにい続けても平気なのかどうか、自分自身を取り戻せることはできるのかどうか。
その賭けは正直非常にリスクが高く、なおかつ自分にとってもダメージの大きいものだったに違いありません。
もし望み通りに行かなければ、ノーラは大きな失望を受けるとともに出て行こうと覚悟までしてしまうわけですから。
これは、私たちの普段生活している人間関係の中でも常にあることなのかもしれません。
心の中で思っていることを言葉に出せない、相手に言えない、ありもしない未来を想像してためらってしまう。
そんな人間関係の難しい部分もこの本の中には詰まっているのでしょう。
だからこそ、時代背景も国も文化も違うのに、どこか共感できる場所があるのです。
友(リンデ婦人)が作ったきっかけ
では、このノーラとヘルメル、何もない中でこのまま生活していたとしたら、それは幸せだったのでしょうか。
私はそれも一種の幸せだったと思います。
しかし、このなんとも言えない違和感は拭いきれずにどこかで何かが爆発していたかもしれません。
その時にはもう後にも先にも行けずどうしようもなく、、、なんてこともあったかもしれません。
だからこそ、今回の機会を与えてくれたリンデ婦人はこの物語の中では非常に大きな存在になっていたと思います。
リンデ婦人がしっかりと向き合わなくてはと助言し、そういうふうに仕向けたからこそ、ノーラとヘルメルは正面切って話すきっかけが生まれたのです。
そう思うと、厳しいも楽しいも友がいるというのは幸せだというふうにも感じられます。
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