『母なる証明』世界は見たいように見える vol.614
今回の映画会の課題映画は『母なる証明』。
以前見た『パラサイト』と同じ監督が手掛けているだけあって、確かに空気感は似ていました。
おそらくこの息子であるトジュンは発達障害系の何かを持っている人物。
会話の受け答えなどが短絡的かつ、あるワードに対して異様なこだわりを見せます。
今日はこの映画の感想を述べていきます。
世界は見たいように見える
事件はおそらく地方で起きています。
お互いの顔が見える街での生活。
お互いの人となりが分かったうえでの生活。
あの人はこんな人、この人はこんな人、それがすべて互いに分かっているのです。
だからこそ、逆にあの人がこんなことするわけないというみたい世界が味方をしていってしまっての結果になったのでしょう。
世界は見たいように見えるというのはいいように言えば、聞こえは良いのかもしれませんが実のところこんな恐ろしいことすらも起こりうるのかと思いました。
母が最後別の青年が犯罪を被った時に感じて泣いたのは何だったのか。
私は、あの青年にトジュンを重ねてしまったのではないかなと思います。
何も罪を犯していないであろうと思っていたトジュンが捕まった時のように、本当に罪を犯していないであろう青年が捕まってしまう。
この矛盾と恐怖と異念に耐えきれなくなったのではないかなと思います。
知らない罪と知ってしまった上の罪
トジュンにとってはより自分の世界が狭く狭く見えています。
目の前だけなのかもしれません。
そして「バカ」という言葉に異様に反応して逆上してしまう。
逆上したがゆえに周りが見えなくなってしまうほどに。
そのせいで、自分自身が犯した罪すらも記憶の中から消してしまっています。
本来の記憶のある人間であればまともに会話をしたりなどというのは難しいのかもしれません。
最後の母へ缶を渡す場面でもそう。
普通であれば、母親がこの火災事件に何かしら関わっているのかもと勘繰ってしまうはずなのに、そんなこと全くもって考えずに善意のままに渡してしまう。
母のように、知ってしまったことを隠すために人を殺すというのも当然罪ですが、こんなふうに知ったが故の罪も生まれてしまいます。
世界で生きるとは何なのか
非常に議論の深まるであろう話なのに、捉えどころのない映画でした。
この監督が伝えたいのはこういった社会的な問題や現状なのでしょうが、主題が何に置かれているのか、非常にフワッとした映画だったなと感じます。
改めて、どこにどう注目すべきなのか少し頭を整理するために私の気づいた論点を絞っていきます。
冒頭(人殺しの後)母親が踊っていたのは?
母とトジュンは強依存?それとも一方的?離れたがっている?
ジンテは友なのか利用しているのか
母はトジュンへ愛を注ぐが、ジンテは本能のままに生きる
「バカ」という言葉に異様に反応を示すのは何か過去にあったからか?
それでもトジュンは受け入れられていた
母が5歳の頃にトジュンを殺そうとしたのは?
トジュンの世界はどこまで理解が及んでいるのか?
ジョンパルにトジュンを重ねた母の心境は?
ざっと議論にあがりそうなところを考えてみました。
さまざまな要素が詰まっていますが、全てが人生の一部であり、どこにでもありうる世界。
この世界の中で、母はひたすらに息子への愛を証明し続け、トジュンは自欲を追い続けました。
果たして、自分の信念を貫き、生きるとは一体何なのでしょうか。
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