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『神は死んだ』どう読み解く vol.132

ニーチェの最高傑作「ツァラトゥストラ」。

簡単にこの話をまとめると、ツァラトゥストラ(ニーチェ)と名乗るおっさんが自分の考え出した、思想や世界観を語り広めようとしていく姿を描いた物語です。

ニーチェのツァラトゥストラは、哲学書としても読みやすい分類にあると話を聞いていたのですが、案外難しくて正直読み進めるのは大変でした。

難しいというよりかは、前提条件を理解していないと何から始まっているのかが、よくわからずに進んでいくような感覚でした。

ただ、この本全体のストーリーを俯瞰して見たり、ニーチェ自身の考え方や思想を背景にある中で読み進めると、一つ一つの物語に深みが出て、非常に面白味のある著書になります。

今日はツァラトゥストラを読んでの感想や感じたことを書き記していきます。

ニヒリズムからの開放

開放

ツァラトゥストラは「神が死んだ」ことを受けて、これまでの自分の超越的な考え方や思想を、多くの人に語り継ごうとします。

そして、しかし町の人たちは何のことかさっぱり理解できません。

まさに、イノベーションのジレンマ。

話す次元が異なりすぎて、お互いに理解できないのです。

確かに、ツァラトゥストラの話すことは常軌を逸しているようにさえ感じます。

それもわからなくもありません。

そもそも神が死んだということに対して、意味を持たせることすら難しいのかもしれません。

いや、多くの人は神が死んだという事実を、受け入れずに新たな神と思えるものを勝手に妄想、もしくは神が死んだことを見ようとせずに、作り上げてしまったのかもしれません。

そのことに気づけばよいのかもしれませんが、多くの人が気づいていません。

何故気づかないのか。

それは、いつも通りを維持しようとして多くの人が惰性で生きてきたからなのです。

このように惰性で生き続ければ、後に何か大きなことや苦境に立ち入ったときでも、目を向けようとせずにニヒリズムを提唱するようになり、いずれは末人となってしまいます。

まさに現代社会をうつしているようにも私は感じました。

マスメディア優位からマイクロメディア優位へと移行し、多くの人が自分の必要としている情報を必要な分だけ手に入れられる世の中になったにも関わらず、そこを放棄し、上からの指示や集団の意識に身を任せようとする。

ツァラトゥストラの言いたいことも何となく理解できるような気がします。

人生を磨く永遠回帰

螺旋階段

そんなツァラトゥストラがたどり着いた1つの考え方に永遠回帰というものがあります。

人の死後についてはさまざまな考え方があります。

死んだ後には、地獄や天国といった死後の世界へ訪れるという考え方もあれば、輪廻転生のように、死んだ後にまた新たな別の生命として生まれ変わるといったもの。

永遠回帰とは、死んだ後にまた自分の生命が宿る瞬間にもどり、自分の人生をループしていくという考え方です。

過去にトラウマがあろうとも、嫌なことがあろうとも、すべてを何度も何度も繰り返し経験していくのです。

そんなループの中でどのように過ごしていくのが、最善の選択なのでしょうか?

もし、そうなのであれば、良いことも悪いことも、否定的にならずにすべてを肯定的に受け止めることで、自分自身を認め、今この瞬間を最高に輝かせることにつながるのです。

そしてこれこそが、永遠回帰している自分の人生をよくしていくことにつながる超人の考え方になります。

これを過酷な人生を歩んできたニーチェが書しているのですから、説得力を感じます。

どうしても私たちは、嫌なことや苦痛からは逃げて、目を背けようとします。

しかし、逃れられない運命であるのであれば、その運命を受け止め自分自身がどのように受け入れていくかを磨いていく。

もっと言うのであれば、逃れられない運命ということ自体おこがましいのかもしれません。

山は大きくなればなるほど、その頂の下に覗く景色は絶景です。

この山に登る資格を持っているというだけでも、相当な幸せなのかもしれません。

子どもになれ!

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上巻だけでは、ここまで話は進みません。

上巻では、地上に降り立ったツァラトゥストラが、人間たちに自分の想いが通じなかったことに悲観し、山にもどっていく姿が描かれて終了します。

しかし、そこでツァラトゥストラはある声を聴きます。

子どもになって恥を忘れること

それは、まさに上でも書いた今この瞬間を輝かせることと同義なのかもしれません。

忍耐を経験し、表現を経験したからこそ、自分の知識や想いが最大限に蓄積され、創造の世界に入るのです。

ツァラトゥストラ、ぜひ読まれたことがない方は、ゆっくりとお読みになってみてはいかがでしょうか?


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