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ifのひとりごと #02:劇場版鬼滅の刃を観て号泣した話

音楽の話をすると言っていたのに至急書きたいことができた。
何を隠そう、社会現象となっている漫画「鬼滅の刃」の劇場版についてだ。
おい、音楽の話はどうした、と言われそうだがこの際それはどうでもいい。書きたいことを書きたいときに書きます!!すみません!

簡単にいえばこうだ。
この映画はあかん。泣いてまう。本当に、泣いてまう。
映画館でこんなに泣いたのはいつぶりだろう、というほどに泣いた。
不織布のマスクが顔に張りついてしまうくらい。観終わってもしばらく動けないくらい。
そして今日(19日)。こうやって深夜2時に文章を書きなぐっている。それもこの感情を形にしておきたいと思ったからだ。

わたしは鬼滅の刃については話題になる前から妹の影響で漫画を読む、くらいの追い方をしていた。だからたぶん割と初めの方から楽しませてもらっていたのだろうと思う。そんなことはいい。とにかく初めてアニメを観たとき度肝を抜かれた。

「いや、完成度えぐいて…」

この一言に尽きる。自分がアニメで描かれている世界に埋没している感じ。物語を愛する気持ちが強ければ強いほど自然とその状態になるが、鬼滅の刃(以下鬼滅)の場合それをまず画の質で底上げしてくる。個人的には太鼓鬼(響凱)との闘いでの空間演出が一等好きなのだが。大切なのは、それらの労力や労力による高い質はストーリーの良さがあってこそ成せる業だ、ということである。物語を引き立てるための画、音楽、演出、声。画面全部からなぜそれをアニメにしたかったのか。それが鬼滅の場合痛いほど伝わってくる。これは形にすべきものだという制作側の信念みたいなものがにじみ出ているのだ。わたしはそこに感動した。

だから映画が公開される、と決まったとき。
しかもそれが煉獄杏寿郎回、無限列車編だとわかったとき。
「これは観る一択」と決めた。しかしこの時世なので映画公開からどれほどで映画にありつけるかはわからなかった。わたしは基本的にチキンで、友人が「自粛期間中にハマったから観に行こう」と言ってくれなければ自分からは行けなかったかもしれない。ありがとう友人。

といういきさつで映画館に足を踏み入れた。

驚いたのは人の多さ。目が飛び出るほど多かった。未だかつて見たことのない光景だ。従業員の人が疲れていた。ひとつの映画でこんな、前部屋がパンパンになるなんて…この時点でわたしは不安になった。自分はいろいろに耐えられるだろうか…。
映画自体ひさしぶりなこともあって、少し緊張しつつ。座席に落ち着いたころにはもう広告も半ばで、心の準備が整うと本編が始まった。

わたしはネタばらしをあまり良しとないので(今回は特に)、以下には物語に関わることは大きく取り上げないが。結果から言うと、予想を、期待を遥かに超えたシロモノだった。3点にわけてその魅力について話したい。

まずひとつめ。映画ということもあり、いつもよりさらに気合の入った美術全般。
これはみなさんも思ったことだろうが、何より無限列車の造形がいいんや…。これが凄いんや…。この、窓枠付近の絶妙な装飾や大正時代の時代設定をしっかり反映した造り。窓を開けたときの描写。走っている姿を引きで上空から見たカット。どれもこれも本物みたいで。でもアニメの質感は失われていない。そして車両については鬼に覆われると不気味さを感じさせるところもまたいい。そう。今回は特に鬼の気持ち悪さを素晴らしく再現していた。魘夢の首周りのビジュアルはガチで天才だった。そして上弦の三も。映像の力を感じた。凄かった。

ふたつめ。戦闘シーン。これは美術に含まれるのではないか?と聞かれたら別腹です!と答えよう。今回わたしが一番楽しみにしていたと言っても過言ではない要素だ。煉獄が使う炎の呼吸の描写がどうなるか。ヒノカミ神楽とどう違いを出してくるかな…と思っていたのだが。これには声優さんの役割も大きく関わってくるだろうが、きちんと同じ炎でも温度や質の異なりが随所に現れていた。そもそも技の外形が違うから、と言われればそうなのだが。柱である煉獄の実力が見て取れる作画となっていた。刀の一振りが。立ち居振る舞いが。すべてが異なり、存在感を放つ。その様が丁寧な仕事の積み重ねでできあがっている。煉獄だけではない。善逸や伊之助、炭治郎の描写にも磨きがかかっており、見応えが抜群だ。善逸好きのわたしは震えた、とだけ言っておく。刮目せよ、という言葉はこのためにあるのかもしれない。

そしてみっつめ。ここにわたしの言いたいことをすべて詰めた。

アニメ版と比べものにならない「重量感」。これがこの映画最大の魅力だ。

物語は二時間みっちり。どこにも無駄な部分がない。人間性や過去が垣間見える夢のシーンに加え列車での戦闘、さらにその後の上弦の三との闘い。どこにも目を逸らす暇はない。それだけではなく、キャラクターの発する言葉が、声優の声という媒体を借りてこれまで以上に胸に響いてくる。何度も名前を出すが、間違いなく映画版で一番大きなファクターを務めた煉獄のセリフのひとつひとつが日野さんの声で、緻密な言葉で浮かび上がってきたとき、わたしは泣いた。それがあまりにも「自然」であったからだ。どうしてもフィクションというのはふとした瞬間、ひとつでもボタンを掛け違うと「白々しく」感じてしまうものだ。自分が覚めてしまう、ような。しかしこの映画は終始わたしたちを捉えて離さなかった。そのとき人物が何を思って、何を今まで背負ってきてその言葉を吐き出したか。考えずにはいられないし、その重みがわかるから感情に波が立つのだ。わたしは炭治郎役の花江さんの慟哭を聞いていられなかった。観ていられない。そう思うのに目が離せないのだ。これほどまでに強く心を揺さぶるアニメ映画は今までなかった。そう。今回観て確信したのは「鬼滅の刃」その作品自体に力が生まれつつある、ということだ。社会現象を引き起こしたのは作品が世に放たれ、素晴らしい制作会社とタッグを組み、作品が「作品であること」を保ったまま評価されたから。そしてその社会現象になった事実がさらなる力を作品本体に与えている。映画の節々にアニメと変わらない「鬼滅の刃を届ける」という信念。それとは別に「これがさらなる作品世界の拡張に繋がる」という自信を感じ取った。変わらない軸と進化したクオリティ。その両者が絡み合い、映画を支えていた。これがどれだけ凄いことか。

わたしは界隈に生息する方ほどたくさんのアニメを鑑賞しているわけではないけれど、人並みには好きな漫画もアニメもある。でもそれがすべて「そうであってほしい形」に収まったわけではなかった。本当に作者がOKサインを出したのだろうか…なんて素人の分際で考えてしまうことだってあった。それでも鬼滅は実現した。吾峠先生がどうお考えかはわからないけれど。それでも受け取る側として、こんなに素敵な作品に出会えたことに感謝したい。それを支えたすべてのひとに深く御礼申し上げます。漫画が完結した今、映画が公開された今、続く物語が一層楽しみです。

まだ観てないひとは是非観に行ってください。後悔は絶対しないから。
長くなりましたがお付き合いくださりありがとうございました。

番外編では鬼滅の刃を大きく支えた「柱」、LiSAの音楽について書きます。


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