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『真昼のプリニウス』池澤夏樹(中公文庫)

 人間はとかく世界を説明する神話や物語を求めがちである。周囲の闇には精霊がいて自分たちを護り、天の神は自分たちを見守ってくれているという神話を信じた結果、ヒトは実力以上に攻撃的になり、他の動物を駆逐して栄え、文明を生んだ。数千年後、英霊となって祖国に帰れると信じた人々は飛行機に乗り自爆した。手強い部分は巧妙に避けつつ、相手を動かす法則を見つけて利用する自然科学は、現在最も権威ある神話である。

 知的好奇心もまた人間の性癖だ。「テレビのクイズにしても、新聞の小さなコラムにしても、週刊誌の埋め草にしても、人はひたすら無意味な雑学とちょっとした感興を求めているように見える。」たとえそれがすぐ忘れてしまうものだとしても。

 想像力と知的好奇心。これらの性質を重点的に利用すると、人間はどんな事物や事象も物語を用いて観察し、理解しようとする方向に傾いていく。本小説の中では広告代理店の男が、事前に用意した膨大な数の短篇をランダムで聞くことができる電話サービスを作り、消費者にそこから自分の運命を見出してもらおうとする。恋に悩む少女が勇敢な戦士の小話を引き当てたら、今すぐにでも愛を告白せよというお告げだと思うかもしれない。もっと迂遠な、例えば豆腐の作り方の話を聞いたとしても、淡々としていればよい結果が得られるということだと引き付けて解釈することができる。人間の想像力と知識を組み合わせれば、結局のところ何かは何かの比喩になりうるのである。

 しかしそれは、事物や事象そのものから遠ざかることでもある。主人公の火山学者・頼子は学生に対して火山を象に例えて説明しながら、「象と重ねられた分だけ火山は象に近くなり、火山本来の姿を失う。言葉に依れば依るほど、実体は希薄になり、それを見る者は幻像の中へ一歩ずつ踏み込む」と感じている。さらに、失恋したときに遠い国の神話を聞いて気持ちを紛らわせるといったように、物語は眼前のものとまったく関係のない時空へと遠ざかる方法でもありうる。物語の、事物から遠ざかる脚力は無限に近いのだ。

  この小説は物語偏重になりかけた人間に対する筆者の、そして頼子の問題提起である。「わたしという人間は、そういう人間の性質、物語の目を通してしか自然を見ようとしない臆病さ、外の世界に背を向け、物語で構築した砦の中に入って互いの肌を暖め合っているだけの人間のふがいなさを、なぜか腹立だしく思っているのです。」「その傾向をこれ以上に助長するのに手を貸したくはないと言っているのよ。わたしはなんとか神話の媒介なしに、事実そのもの、世界そのものを見たいと思っています」

 結局のところ、頼子も各所では物語と共にある。そもそも題名の「真昼のプリニウス」はラストシーンの頼子を表わした直喩だ。日野啓三氏は解説で『無名の女性の浅間山の噴火の記録を目にして以来、彼女の意識の中で動き始めていたマグマが噴火するのである。』と、小説全体を噴火の様相と重ねている。だが、人間の生が不可避に過去の物語と重なってしまうことと、自らの手で物語を持ち出すことは異なる。その手を極力抑えつけることはできないだろうか。

 頼子は疲れた身体に鞭打って浅間山を登り、噴火口の景観を見つめることで神話を振り払おうとする。自分の身体を動かし、自分の目で世界を見ることは、こんなにも力強い行為なのだ。

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