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東海道NOW&THEN 23 「藤枝」

岡部から藤枝まで1里26町。約6.8km。

 岩村藩・田中藩の領境傍示石を見て、葉梨川を渡る。その昔、家康が戦勝を祈願して鎧を沈めたとされる川。すぐそばには鎧堂がある。橋を渡ると鬼島の立場跡。立場とは、宿場と宿場の間にある休憩所。ここには、火の見やぐらと木造の灯籠が再現されている。そこを過ぎると藤枝宿の東木戸はすぐ。領境傍示石から小1時間。

 広重の絵は、問屋場の風景。前の宿場から送られてきた荷物を人足と馬を交代して、次の宿場へ送り出す。それを「人馬継立」という。右上の屋内にいるのは問屋場の役人。その前、笠をかぶった武士が監視している中、荷物の受け渡しが行われ人足と馬が入れ替わる、その様子が描かれている。各宿場の問屋場の果たす役割を、この絵から知ることができる。
 現在、藤枝の問屋場跡は民間の月極駐車場になっている。その駐車場を撮影しようと思ったが、とりたててこれという写真になりそうもない。ふと脇を見ると、駐車場の持ち主が立てた看板。そこに広重の絵を掲げて、ここが藤枝の問屋場であったことをアピールしている。それで駐車場を撮るよりは、こちらをと撮影した1枚。
 
 藤枝の東木戸を入り宿場の中を行くと、「徳川家康 ゆかりの町」の看板。読んでみると「本能寺の変」「伊賀越え」「徳川家康を救った小川孫三」とある。
 本能寺の変のとき、家康は堺にいた。ひとまず三河へ戻ろうと臣下をわずか引き連れ伊賀越えで伊勢の港を目指す。伊勢の白子というあたりで、あわやの危機に陥る。そのとき麦刈りをしていた農民が、とっさの判断で家康一行を麦畑の中に隠す。そのかいあって、家康は無事に伊勢から海を渡り三河へ戻った。家康を救ったことで伊勢の白子にいられなくなったその農民を家康は藤枝に呼び寄せ、土地を与え「白子町」を名乗らせたという。その白子、現在では東海道に沿った商店街の名として残っている。家康を救った農民小川孫三の家には家康の朱印状が代々残されているそうな。

 藤枝の西木戸を出て小1時間ほど、染飯茶屋跡の標石と伝承館がある。染飯はもち米を蒸した強飯にクチナシの実を混ぜてすりつぶし、小判型に握ったもの。クチナシは消炎・解熱の効果があるとして漢方薬に用いられていたので、旅人には疲労回復の効果大と評判だったようだ。染飯を再現した写真を伝承館で見ると、まるでおにぎり弁当。藤枝の町では今でも販売している店があるらしいが、残念ながら見つけられず。食すことはできなかった。

 染飯茶屋跡と伝承館を過ぎて、日本橋から51番目の一里塚「上青島の一里塚」まで約30分。そこから次の島田宿までは、さらに1時間。

追記:東海道の道中で何度か見かけたのが「元三大師」のお札。元三大師とは平安時代の天台宗の名僧・慈恵大師のことで、亡くなったのが正月の三日だったことから「元三大師」。疫病が大流行したとき、夜叉に姿を変えて疫病神を追い払ったと言われている。このお札は「角大師」と呼ばれ、夜叉になった大師の姿を描いたもの。まさにコロナ禍の中、このお札を玄関に貼り疫病退散を願った人が多いのだろう。

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