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東海道NOW&THEN 37 「赤坂」

御油から赤坂まで16町。約1.7km。

 天然記念物の御油の松並木を気持ちよく歩く。松並木を通り抜けると、そこはもう赤坂。芭蕉は、御油と赤坂の近さを「夏の月 御油より出でて 赤坂や」と詠んだという。

 広重の絵は旅籠「村本屋」の2階から、裏の部屋と中庭を見下ろすように描かれている。正面の部屋には片肌脱いで風呂から戻ってきた者、横になりキセルをふかす者、どちらもくつろいだ様子。そこへ顔を出す按摩、夕食の膳を届ける旅籠の女。一方、右の部屋には鏡を前に化粧に余念のない飯盛り女たち。夕どきの旅籠の内部の雰囲気がよくわかる。
 写真は、旧旅籠大橋屋。当時の面影を色濃く残しており、資料館として公開されている。その中庭から撮影したもの。絵のように2階から裏を見下ろすと、奥の棟はなく広場になっている。そこに広重の絵を彷彿させるように、ソテツの木と石灯籠を置いてあるので気分だけでもと撮影した。

 御油でも触れたが、赤坂は、御油、吉田と並んで東海道の中でも飯盛り女でにぎわっていた宿場。赤坂は近在の若者たちの歓楽の場所でもあったらしい。「御油や赤坂、吉田がなけりゃ親の勘当うけやせぬ」という唄が残されている。赤坂の江戸口を入ってすぐに問屋場があり、復元された高札場に道中駕籠のミニチュアが置かれた小公園がある。その先に本陣跡。そして「浄泉寺」がある。ここには広重が描いた旅籠「村本屋」のソテツが、明治20年ごろの道路拡張のため移植されている。推定樹齢280年だそうだ。
 その隣に旅籠大橋屋。江戸時代の屋号は「鯉屋」、一般の旅人が宿泊する旅籠だった。江戸時代の旅籠建物の姿を再現し、一般公開されている。聞けば、平成の中頃までは宿泊もできたらしい。その頃に来れば…と思わずにいられない。

 西見附を出て30分で長沢の一里塚。その先、長沢小学校の角に「長沢城跡」の表示板。今川家臣の居城であったものを三河松平として頭角を現した松平信光が攻め落とし、息子・親則に与えた。以降、親則は長沢松平と称した。城は東西200m・南北250mという大きさ。表示板は小学校の南東の角にあり、校庭の北側にある国道1号線の向こうにまで広がる大きさだった。校舎の裏にはわずかに石垣が残され、また校庭の端には徳川家光が上洛の折に建てられた「御殿」の跡もある。両側を山に挟まれ東西三河の境目にあたり戦略上重要な地点で、この地域には登屋ケ根・長沢・岩略寺の3つの城があった。家康が三河平定後は時代によって対今川の最前線であり、本能寺の変以降は対豊臣を念頭に再整備されたのだという。

 城跡から東海道はすぐに国道1号線に合流し、次の宿場・藤川との間の宿・本宿まで約1時間。藤川まではさらに1時間とちょっと。

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