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東海道NOW&THEN 36 「御油」

吉田から御油まで2里22町。約10.1km。

 菟足神社から約1時間半で御油の一里塚。その目と鼻の先に姫街道の追分。浜名湖を迂回してきた道が御油の宿場の手前で合流する。御油宿の見附はすぐ。

 吉田宿、御油宿、そして次の赤坂宿は、東海道の中でも飯盛り女でにぎわっていたという。参勤交代で往来する武士が「御油に赤坂、吉田がなく婆(ば)何のよしみで江戸通い」と詠んだとされる歌が伝えられている。広重の絵は、旅人を自分の宿に引き込もうとする留女を描いている。つまり客引きだ。留女に捕まり慌てふためく旅人の表情がおかしい。
 写真は、御油でいちばんの旅籠だった大津屋跡の前。たいそう繁盛していたが、18世紀末、安永元年に廃業(その理由は後述)、味噌醤油の醸造を始めた。それが現在まで続く「イチビキ」、写真の両側の蔵がそれだ。
 
 御油宿の江戸口は若宮神社。そこを過ぎると、明治政府が近代医学を学ぶためにドイツから招いた医師ベルツの妻となった花の実家跡。父は旅籠を営んでいた。高札場跡、問屋場跡を経て本陣跡。その斜め前に旅籠大津屋跡。写真で紹介した「イチビキ」。
 その大津屋跡の先、左手にある「東林寺」。室町時代に創建され、本尊である阿弥陀如来は、奥州へ下る源義経と契りをかわした浄瑠璃姫の念持仏だったのだとか。近在では名の知られた寺で、徳川家康も二度立ち寄ったと寺の縁起に書かれている。この寺の本堂左手の墓地の奥には、入水して亡くなった飯盛り女たちの墓が並ぶ。貧しい農家の娘が年季奉公に来たものの、あまりのつらさに自ら命を絶った。抱え主であった大津屋の主人は、そんな家業に嫌気がさし旅籠をたたんで廃業。彼女たちの菩提を弔うためにここに墓を建てたのだという。

 参勤交代のとき、諸藩の大名は事前に宿泊先となる宿場の問屋場役人と本陣旅籠にいついつと伝えた。それを聞いた宿場では宿泊の3日前までに本陣の前と宿場出入口に縦3尺半・横1尺半の板に宿泊年月日・藩主名などを書き込んで、長さ3間半の棹に掲げることが決まりだった。その看板を「御関札」という。これを掲げることで大名の権威を表し、また通行人たちに無礼がないようにするためでもあった。この御関札と、白須賀で紹介した桝形「曲尺手」を考え合わせると、行列の鉢合わせを避けることはそれほど難しいことではなかったのかなとも思う。写真の御関札は、御油の問屋場役人の「御定宿之控」をもとに復元されたもの。
 御油の西見附を出ると、そこは御油の松並木。600本植えられた黒松のうち、350本が現在も残っていて天然記念物に指定されている。

 次の赤坂宿までは、わずか16町。20分ほどで着く。

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