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東海道NOW&THEN 32 「新居」

舞坂から新居まで海上1里。約3.9km。

 舞坂を出て浜名湖にかかる鉄橋を渡る。10分ほどで弁天島。ホテルや公園を左に見て、さらに進む。右に新幹線と東海道線が走り、浜名湖が見える。左を見ると少し離れたところに遠州灘。左右に海と湖を見つつ、舞坂から約1時間でJR東海道線の新居町駅。新居宿の東見附は目の前だ。

 広重は舞坂から新居へと向かう、今切の渡しを描いている。右中ほどの町の端に新居の関所が見える。海上を行く舟は2艘。先を行く舟に毛槍が見えることから大名が乗ったと思われる帆掛け船、手前は船頭が棹を海に突き立て進む。帆掛け船の吹き流しを見るとかなり強い風が吹いているようだ。その風に流されまいと手にした棹に力を入れる、そんな手前の舟の船頭たちの必死さが伝わってくる。                        
 写真は現在の鉄橋そばの防波堤から対岸の新居宿を撮ったもの。この辺りは、まだ浜名湖の中と言ってよく、波もおだやか。絵の中の、強風の遠州灘を行く舟との違いを感じて欲しい。

 鉄橋を渡った先の国道の標識には、272kmとある。日本橋から京都までの半分と少し歩いたことになる。歩き進むと、新幹線の車窓から何度も見た浜名湖の競艇場が見えてくる。JR新居町駅は競艇場最寄りの駅。そこを過ぎると、句碑がある。山頭火の「水のまんなかの道がまっすぐ」。山頭火は昭和14年にここを歩き、駅の先にある浜名橋で詠んだものだそうだ。その4年前には与謝野晶子も浜名橋で歌を詠んだ。さらに付け加えれば源頼朝も上洛の折、この辺りで歌を詠んだという。

 浜名橋を渡りきると、そこには新居の関所が再現されている。ご承知のように江戸時代は日本のあちこちに関所が設けられ、”入り鉄砲と出女”が厳しく詮議された。この新居の関所では出女だけでなく「入り女」も詮議されたそうだ。
 そのためか、浜松の前の見付宿から浜名湖を北へ迂回する「姫街道」がある。新居の関所を避けて見付宿と御油宿をつなぐ道だ。この迂回路を歩くのは男よりも女の方が多く、それで「姫街道」と呼ばれたという。新居の関所では女人改めが厳しかったことも理由のひとつだが、それだけではなく舞坂・新居間の渡し「今切」が女にとっては「縁が今切れる」に通じるとかでここを避けたとするのも理由だそうだ。皇女和宮が江戸の徳川へ降嫁したとき、東海道よりはるかに険しい中山道を下ったのもそれが理由と話してくれたお年寄りがいた。その証拠に和宮の輿入れの荷物を運ぶ行列は、中山道に比べておおむね平坦な東海道を江戸へ下ったのだとか。

 新居宿を出て、源頼朝がこの地に宿泊した時、茶をたてる水を汲んだ風炉の井まで約15分。さらに20分ほどで浜名旧街道松並木。きれいな松並木だが本来のものは枯れ果て、現在のは昭和になって植えられたものだ。白須賀宿へ上る潮見坂下までは、さらに小1時間。

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