東海道NOW&THEN 39 「岡崎」
藤川から岡崎まで1里25町。約6.7km。
藤川の西の棒鼻そばに、江戸から79番目の藤川の一里塚。そこから80番目の大平の一里塚まで約50分。岡崎の江戸口に立つ冠木門までは、さらに20分ほどだ。
広重の絵は、岡崎の西を流れる矢作川に架かる矢作橋を描いている。右上に岡崎城が見えるので、橋を渡った西詰から見た景色と思われる。この橋は「長さ二百八間、高欄頭巾(擬宝珠のこと)、橋杭七十柱の東海道第一の長橋」と『東海道名所図会』に書かれているそうだ。広重はその長さを強調するかのように、橋が左から右まで画紙を横断している。ただ、あるはずの欄干の擬宝珠が描かれていない。広重の『行書版東海道五十三次』の「岡崎」は橋を行く旅人を描いているので、ちゃんと擬宝珠も描かれている。
写真は、現在の矢作橋の西詰から岡崎城を望むように撮った1枚。対岸の建物に埋もれてしまっているが、かろうじて城の天守閣が見える。
「掛川の七曲り」を覚えてますか?城下への敵方の侵攻の勢いをそぐために桝形を幾度も連続させた「七曲り」。岡崎は、なんと!「二十七曲がり」だ。この「二十七曲がり」は豊臣秀次の家臣・田中吉政によって整備されたもの。小田原を制圧した秀吉は家康を関東へ転封し、尾張を秀次に与えた。その時に田中吉政は岡崎の城主となる。吉政が最初にしたことは城下の備え。それが「二十七曲がり」。
東から岡崎に入ると、すぐに街道は折れる。また折れる。その繰り返し。やがて左前方に岡崎城が見え、宿場の中心に近づいていると思うのもつかの間で、道は城を遠巻きにするように折れ続けて宿場の中を過ぎていく。気がつくと城は後方に去り、いつの間にか宿場の西の外れ。決して城には近づかない、いや、近づけさせないという方が正しいかも。現在は曲がる箇所ごとに案内標示が立っている。
宿場に入ってすぐ、少し裏に入ったところに「祐傳寺」がある。謀反の疑いありとされ、息子・信康とともに殺害された家康の正室・築山御前の首塚が、ここにある。信康の謀反の企みについては諸説あるが、いずれにしても当時の家康には信長の命をはねのけるだけの力はなかった。
折れて曲がって進む。気がつくと岡崎の京口、松葉惣門跡。その先に味噌蔵が立ち並ぶ。「八丁味噌」の老舗「まるや」と「カクキュー」だ。江戸時代より、まるやとカクキューは伝統の製法と味を守り続けてきた。大豆そのものを麹化して塩と水だけを加え、木樽で熟成する豆味噌。2014年に制定された、産品の名称を知的財産として保護することを目的とする「特定農水産物等の名称の保護に関する法律」。だが、これにより、この本家本元ともいうべき老舗2社が「八丁味噌」を名乗ることができなくなりそうだという。後発の醤油味噌会社がつくる製造組合が保護の申請を出し、農水省がそれを認めたためだ。老舗2社は、後発会社のように製造法をゆるくすれば八丁味噌ではなくなると訴えたが棄却された。その前後にもやり取りは細かに紆余曲折あるが、それは省く。いずれにしても、江戸時代からの製法を守り続けてきた本家本元が「八丁味噌」を名乗れなくなるトラブルに見舞われているとだけ言っておこう。
京口を出て矢作橋を渡るとそこに「出合之像」。幼き豊臣秀吉・日吉丸が蜂須賀小六と出会ったのは、この矢作橋の西詰。秀吉の天下取りはここから始まったのだ。さらに西へ進むと、「大友皇子遺跡」の石碑。壬申の乱で敗れた大友皇子は自害したと見せかけ、実は岡崎まで逃げ延び、ここで残りの人生を全うした、その慰霊碑。大友皇子生存説は他にもいくつかあるそうだ。いやいや、東海道を歩いていると学校で学んだのとは違う、歴史の新事実(?)に出会います。
そんな中身の濃~い岡崎を出て、次の宿・池鯉鮒を目指します。
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