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雑記

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雑記。ZAKKI。ザッキ。
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#雑記

雑記:22

最近、というか以前より気になっていたことについて。まず、ある現象の名前を知りたい。「ある生産物はそれを生み出した機械の性能を超えることはできない」という現象について。確か、これには何か名前があったはずなのだけれども、もう何年も思い出せない。もしかしたら、この現象に関する論文か何かを読んだだけなのかもしれないけれども・・・。 この現象が仮に正しいとすると、例えばレシートはレジの性能を上回ることはできない。 例えば宇宙とか人間を理解することはできるのだろうかという疑問にはどう

雑記:21_古い写真

昨日のことだった。部屋の掃除をしていて、20数年開けていなかった戸棚を開けた。ほとんどゴミばかりだったけれど、一つの古い写真は私の手を止めた。 今から30数年前の、私が生まれる前の母の写真だった。更新済みの免許証だった。色白で、きょとんとしたちょっと間抜けな顔だった。免許の写真なんてそんなもんだとは思う。だけど、なんだか可愛らしかった。私は、すぐ近くで作業をしていた父を呼んだ。こんなに綺麗だったんだ、と。そうだった、こんな時もあったんだなあ、と父は言った。私は父の顔をみなか

雑記:17_展覧会カタログ完成

今年の1月に終了した展覧会「Artの地産地消」のカタログがようやく完成しました。 展覧会企画、ファシリテーション、カタログ作成、レイアウト、執筆、校正、印刷所手配など幅広く関わりました。 もしご興味あれば、どうぞ。ご意見ご感想などもよろしくお願いします。 無断転載はお控えくださいませ(しないと思うけど)

雑記:16_本の終わり

本の終わり、とかくと紙媒体か電子書籍かという話になりがちだけれども、最近考えたことは少し違う。本を読んでいる時、本はどのようにして終わるのかということである。 どういうことか。例えば、どんな本でもどういう風に読み始めたかは多分覚えているはずである。表紙、見返し、扉、目次、本文、といったように本に触れ始めると思う。では、本が手から離れていく時はどうだろうか。あとがきを読んで、終わりだろうか。 何をいいたいのかというと、本が終わる瞬間というのは奥付に目をやった時ではないだろう

雑記:15

なんとなく始めた詩の投稿。どれも全てに思い入れがあるし、その一方でどれも全てなんだこんなものと思ったりもしている。30本以上詩を投稿してきて、よく閲覧されているものとそうでないものがあらわれるようになってきた。 よく閲覧といいつつも、それは大した数字じゃなくて、閲覧されていないものに比べればまあよくみられているなという程度のもの。 そこで、一番読まれているものと、一番読まれていないものを紹介してみる。 2020、6、25現在で一番読まれているもの この詩は会社員時代(

雑記:13_当事者とは誰なのか

以前から注目していた問題。 2014年頃に初めてオープンダイアローグに出会ってから様々な関係領域についての知識が増えた。その中でも興味を持ったのが当事者研究というものである。あくまでも、言葉を知っている程度のことで専門知を持っているわけではない。 今回、それが悪用されているという記事に出会った。まさに、私自身は当該事件の当事者ではないため、なんとも言えないが、このなんとも言えないモヤモヤ感や不快感の当事者ではある。そこで、考えたのは当事者とは誰なのかということである。

雑記:8_共生(symbiosis)について

withコロナという言葉が生まれたため、4月に考えたことを再度検討してみたい。共生について。 最近、「共に」という概念について深く考えることが多い。先日、哲学者がコロナとの「共生(symbiosis)」についてコメントをしていた。 当初私は、納得したもののしばらく考えてみると違和感を感じるようになった。その違和感は、なぜウイルスに人称を与えてしまうのか、ということである。とりわけ、「あなた」に近い二人称を与えていることが不思議である。 敵とか共生という言葉には私とあなた

雑記:4_コロナピューリタリズム、そして失われた環状島について

前回、私がとても好きな精神科医斎藤環先生の文章を紹介しつつ、雑感を述べました。 失われた「環状島」|斎藤環(精神科医)|note 奇妙な健忘   歴史上もっとも奇妙な健忘状態、その一つとして「スペイン風邪」を挙げたとしても異論は少ないだろう。鳥インフルエンザに起因するこのA型インフルエンザウイルス(H1N1亜型)は、全世界でパンデミックを引き起こし、最も多い推定で1億人が死んだとされている。 「環状島」とは何か、については是非先生の文章を読んでいただければと思います。

雑記:2

はんこ文化について最近考えている。 文化というほど、なぜ浸透しているのだろうか。浸透、の前に文化はなぜ文化たりうるのだろうか。そこには反復が関係していると思う。簡単な話で、なんらかの動作なり主義主張が反復されなければ浸透もしないし、それは文化になり得ないということである。 はんこを押す動作は反復である。ペタペタと押す作業はなんともリズミカルでともすれば快感になるかもしれない。しかし、必ずしも快感ばかりがあるわけではない。業務上仕方なくやる場合もあれば、なんども訂正しなけれ