声を発することへのためらいと吹っ切れ
先日、Clubhouseで一人しゃべりに挑戦しました。っていうと「一人しゃべり」が目的みたいですが、あくまでも手段として。
オルタナティブスクールの日常を、一週間の振り返りという形でお話させていただきました。
こわいこわいと思いながらもいざやってみると、残ったのは意外にも瞑想したあとのようなまろやかさ。きっと、聴き手のみなさんがすごくあたたかかったからです。(その節は、どうもありがとうございました!)
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こう書くと、なんだかおしゃべりが好きな人っぽいですね〜。でも、いわゆるそういう人ではないです。
普段はわりと人に水をむけてもらわないとしゃべれないですし、複数人の会話が苦手だからこそ一人しゃべりを選びました。
じゃあ、そんなことする勇気は一体どこから湧いてきているのか?自分でも不思議ですが、でもどこか意識して導いたようなところもあります。
というわけで、
今回はClubhouseで「声の配信」をやってみて、心に浮かんできたことをいくつか綴ります。
「声だけ」の近さとぬくさ
「声だけ」をリアルタイムで発信するのははじめてでした。むか〜しnoteにストーリーテリングの音源を上げたりはしていたんですけどね。(現在は非公開)
やってみて素直に感じたのは、視覚情報が少ない分、みなさんと共有したい情景を思い描くのに、内部で起こるインスピレーションを聴くのに、とても集中しやすいということでした。
電話するときの感覚や、お泊まり会の夜に電気を消してぬくぬくと布団に入りながら友達としゃべっている感覚にすごく近かったです。
遠くにいるのに心は近い。不思議と心地よい距離感でした◎
暗闇の体験がよみがえる
あともうひとつ、何か身に覚えのある感覚だな〜と思ったら、ダイアログ・イン・ザ・ダークという暗闇体験で感じたことにもよく似ていました!
光ゼロ・100%暗闇の世界を、視覚障害者の方のアテンドにより体験できる場所です。
真っ暗で何も見えないなんて、パニックになるんじゃないか。グループワークなのに、お一人様の参加で大丈夫か。
事前にこんな不安を持っていたのですが、いざパチンと暗闇が降ってくると、何も見えないことに秒で慣れました。(抵抗してる場合じゃないとき、人ってすんなり受け入れるんですね)
しかも、怖いどころかなんとも言えない安心感とわくわく感が押し寄せてきました。余計な仮面を脱ぎ捨てて自由になれる感覚といいますか。
暗闇の中なので、知り合いがいようがいまいが関係もありません。それより、みんな暗闇を渡ることに、声を発して存在をアピールすることに必死!
(これは「声を発しなければ、存在しないも同然になってしまう」という体験でもありました。)
体験が終わり、光のある場所へ戻ってみると。さっきまで距離の近かった人たちがとたんによそよそしく思えたり、え、声だけの時と印象が違う!と思ったのをよく覚えています。
結構、人って見た目で多くを判断しているんだなぁ、見た目の情報って多いんだなぁと思った出来事でした。
緊張しないで済んだ理由
で、Clubhouseでの一人しゃべり。すごく怖れていたわりに、いざやってみると大丈夫だったのにはいくつか理由があります。
①「伝えたいこと」が自分の中に満ちていた
一週間の振り返りという骨組みを用意していたのもあって、何もしゃべることがない・頭が真っ白になるかも、という心配がほとんどありませんでした。あとは聴き手のみなさんの興味にあわせて肉付けをするだけの状態。
②「ぜひ聴きたい」と具体的なリクエストをいただいた
おかげさまで「必要としてくださる方はちゃんといる」という安心感を持って、余計な自意識にも邪魔されず(笑)、伝えたいことに集中することができました。試行錯誤の様子をありのままインスタに載せていたのもあり、半ば応援に近いものをいただいたと思います。
③事前に小さく試して失敗慣れしていた
そもそも、なにか新しいことをはじめるときの心理的抵抗の乗り越え方を、メインの活動ではないところで体験しておきたいというのがありました。
「等身大・現在地を知る」→「小さく試してたくさん失敗する」→「そのうち平気になってできることが増える」
どぎまぎしながら実験精神旺盛にやっていくと、ここに書くまでもない微妙な技や経験値?がつもっていき、いざ「本番」での大きな助けとなりました。
きっと自信がつくのを待っていては、いつまでもはじめられなかったでしょうね。今後「自信がなくてなかなかはじめられない」という状況が出てきたときにも、この経験が支えになってくれそうです。
苦手はギフト?
自分や子どもの学びのそばにいると、「できるようになるっていうのは、できてないところがわかるようになること」だなぁとつくづく思います。
苦手意識を覚えられるということは、それが実はやりたいことだったり、向き合う素地を持っている領域だからなのかもしれません。
だって、本当にやりたくないことは、できなくても平気だもの!
わたしはいまでこそ仕事道具としての「語り」に意欲を持って取り組んでいますが、そういえば、むかしは自分の声(エネルギーみたいなもの)が相手の何かに触れるのが、なんだか申し訳ないことのように思っていました。
いつも小さい声で、ためらいながらことばを発していたので、「え?なんて?」って聞き返されることも多かったです。(今もか)
でも、苦手がギフトなのだとしたら?
無意識に自分の持つ影響力のようなものを知っていた気がするし、影響力を持つことが怖くて魅力を押さえ込んでいたのかもしれないですね。
自分のことを「魅力がある」とか「影響力を持っている」と言っているようで誤解を招きそうですが、ここで言っているのはインフルエンサー的なことではなくて、生きている人間なら誰でも発しているであろう普遍的な影響力ことです。
実は、苦手だと感じていることを「魅力だよ!」と教えてくれる尊い人がいたのですが、この話は長くなってしまいそうなのでまた今度にします。
長々と読んでいただき、ありがとうございました◎
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