団塊ジュニアの心の傷について考える
私は、大相続時代に、
親世代も子どもの世代も「安心して」
不動産承継がきちんとした形で果たされることをやっていきたいと思っているのですが、(国土問題と、未来の日本の安全・平和・幸福のため)
そこには単に大家業だとか、不動産知識うんぬん以前に、
それだけでは埋められない溝があるので、
今回はそこの問題の根幹にあるものについて考えたいと思う。
団塊ジュニアの傷は、親と紐づいていることが多い。もちろん、社会人として厳しい時代が
続いてきたこともあったろうけれど、
それだけでなくて、
「大人になっても、これからも、きっと
親の期待に応えられない自分」
という事に深く傷ついた人が多い気がする。
どんだけ皆、親想いなんだ、と(笑)。
団塊ジュニアは、けなげなほど
親を喜ばせたいと願って生きた世代だった。
まあ、団塊ジュニアというよりも
子供というものは、そもそも
そういうものなのかもしれないけれど。
自分が子どもを育てる立場になって、
親から子供に対する愛情なんかよりも
子供の親に対する愛情の方が
無償のような気がした。
これは、私が未熟だからなのかもしれない。
一方で、人生をかけて私のいのちを守って来てくれた人たちがいて
自分が存在していることも知るようになった。
人間の赤ちゃんなんて、路上に放置されたら
生き残ることは誰もできないからだ。
■愛情の深さの反射としての強い憎しみ
親に対する苦しみや、苦しみの果てに、
愛情の深さが反射として大きな憎しみとなって
大人になってももがき続けている人たち
を見ていると、
自分のここまでの30年の蛇の道を振り返るのと
同じくらい切なくなる。
(団塊ジュニアなのに30年と書いたのは、
私の子ども時代は、孤独でも豊かだったから。)
というか、私だって、
たまたまブレイクスルーポイントが起こっただけで
いい大人になっても、
泣き続けている小さな少女を
やっぱりどこかでずっと
なぐさめることも出来ずに、心の中に抱えていた。
それは精神的な成熟にともなって
心の中の洞窟の、
さらに奥にある壺に格納する術を覚えていくことや
あるいは自分のチカラでも、
「彼らとは全く違う、別の」
小さな幸せを見つけていくことが出来るんだと分かることで
ある程度散らすことが出来るようになってくる。
私もそうして、
自分はこの問題はもう最終ステージまで
おおよそ片付いたと思っていた。
…でも、いつもどこかで
心の中の小さな女の子が、ずっと
寂しそうにポツンと
ひとりで体育座りしているような光景はあった。
去年までは。
■ブレークスルーポイントは、
なんと ムスメの不登校問題だった
昨年起きた2020年の混乱と
「ムスメの不登校問題」によって、
何の因果か、ほぼ最終ステージにおいて
私と上の世代のほうの「親子問題」を
完全に昇華することができた。
つまり、
私と私の両親の関係性の中で生まれた
私の心の中の「膿」「毒物」の完全撤去
が実現したということである。
そっち??(笑)(笑)
終わってみないと
神様の真意というものは分からないものである。
「ムスメの不登校問題」が無かったら、
親に対する「フタをし続けてきたクサイモノ」
とわざわざ改めて闘うことなんて
なかったと思う。
なので、
凄い角度から、差し込んでくるよなあ~(笑)という
神様のしかけのようなものを感じる数奇な経験ともなった。
もし、私個人の問題であったなら、
いい歳して、フタを開けて
家族中に臭気を放つこともしたくはないし、
洞窟の奥まで壺を取りに行って、
開けたところで解決するとも思えないので
墓場まで持って行った話だったろうと思う。
私の場合は
ムスメを守るためには
クサイモノ(私の中の膿と毒物)と闘うしかない
という差し迫った事情がたまたま起こった。
結果として、私はその時
両親の娘である以上に、
ムスメの母親であることを選ぶことを余儀なくされた。
そこに「順位を決めること」を課題として与えられたのだった。
それをやらなければ、
ムスメの翼がもがれてしまうこと、
そして、それを修復するのには
人生の中でも最も輝かしい若い時代
その大半を費やしてしまうことになるリスクについて
私は知っていたからだった。
つまり、私は40代にもなって、
自立しきれていなかった自分にも
気づかされることになったという事だ。
自活、という意味ではない。
親と精神的な基盤の部分でぶら下がり続ける
切り離せない関係性、
依存体質だったのだと気づいたのだった。
どういうことかというと、
この期に及んで、「いい娘でありたい」というエゴを
自分が抱え続けていたこと、
その気持ちに支配され続けていた自分に
気づかされたという事である。
その課題に向き合うことによって、
「別に、親に認めてもらうことが、私の人生の目的なんかじゃない。」
「ムスメの希望ある翼を守って、大空へ羽ばたかせる方が数段尊い。」
という本質的な出口を見出すことができた。(やれやれw)
だから、別に、小さな泣き続ける少年少女を
今も心に抱え続けているからと言って、
その人が、何か未熟であるなんて
そんなことを言うつもりはさらさらない。
きっと、それぞれにとって「時」というものは
あるものなのだと思う。
とはいえ、
内側で、傷つき体育座りして顔を伏せている小さな子供を
自分でさえ認めてあげられずにいる人が
団塊ジュニア世代には、
まだまだたくさんいるのも確かだ。
自分たちが親の期待や、願いを叶えたいと
子供時代から純粋な気持ちで闘って
闘って、闘って、闘って、
社会人になってからも
20年以上もの長い時間をかけて
なんとか「親から〇が貰えるように」と闘い続けて
それなのに「親が望むもの」を手に入れられず
よって、親からも認めて貰えず
そんないのちがけで奮闘した自分を
自分自身すら褒めてやらず
生きる意味すら見失ってしまった。
そんな友人が
35歳を越えたころから、多く出てきていた。
私にも正直、そういう時間が長く続いたとも思う。
でも、そこには意味がある。
意味があるんだ。
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