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2024.6.2 缶コーヒー

明るい雨天の午後の下りに、疲れていたのか、本を読みながら寝ていたようで、強くなった雨風の音で目が覚めた。
連休のない身分にとって、平日の大学の隙間時間にも作業するとはいえ、束の間と思える休みでも、何らかの作業の進捗は欲しいところだったが、それは起きて煙草に火をつけた時には、もう無理だろうという気だった。
近頃は随分と日が伸びて、冬の憂鬱など去ったような春だったが、それも過ぎて、気だるい夏がやってくる、それを確かめさせる梅雨の気配が天気にも自分の気分にも張り付いている気がする。
春は冬が去ったと思える期間だけがいいのであって、それが常態化して予感を見失い、ただ夏を待つだけとなると、途端に、気圧が不安定なのと学期の半ばということもあって、息苦しく感じる。
気温の上がった朝の過ぎに駅に向かって歩いていて、ポロシャツが汗で湿ったような気がする、馴染みの蕎麦屋で出前の原付に乗り込む男が出てくる、ふと店の冷房の効いた空気が気圧差で風となって袖口に入り込む、僕は、僕の手を離れたまま季節が滑り落ちていくことに気が付く。
次の春が一年後に来ることも、去った夏に触れられないまま次の夏が来ることも、何も気がつかない方が良かった。
そうしたことを考えると、これから書くであろう小説のことも、読むであろう本も、人間関係の諸問題も、全てが遠のいたままのアスファルトに転がっているような、そんな気になる。

缶コーヒーをこの一年ぐらいよく飲む、それまではコカ・コーラだった、その費用が重く感じて、百円均一の自販機まで少し歩く。
それまでの道程に、低く項垂れた紫陽花の鉢植えを見つける。
他人の家の前で暫く眺めるのも、と思い、通り過ぎても、盛んに咲いて重さに耐えかねたその青が、脳裏から離れない。
台風一号、線状降水帯、と何の気になしに付けたテレビで天気予報士が言っていた。どうやら、その日に、半袖か長袖か、だけでは暮らせないようだった。
雨は元来好きな性だが、それは今日のような、最近の晴れ間の中の休日に降るから良いのであって、やはり僕も動物でしかないというか病理を抱えているせいかもしれないが、気圧が不安定で日照時間が短くなると、どうも良くない。
雨はそれ自体の特徴として、季節の匂いを強く閉じ込めるから、それは一人で缶コーヒーを買いに行くなどという散歩においては構わないが、満員電車や大教室となると、人間の匂いが強く、騒めきと共に閉じ込められて、堪らず煙草が吸いたくなる。
逃げ出したくなる教室の人間の匂いも、逃げ出した後の校舎の濡れたアスファルトの吹きさらしも、シケた煙草の味も、よくよく考えてみれば、毎年の繰り返しでしかない。
それは螺旋状の階段をゆっくり降り続けるのに似ている。

もう長い友人が社会人になって地方に配属になった、と言うので、何人かが集まり、東京駅に見送りに行った。
海外赴任でも飛行機の圏内でもなしに、今時は新幹線ですぐに東京に来られるのだから、次の夏には帰ってくるのだろうが、その友人とも、高校の頃の毎日に比べたらありえないほどに間遠になっていたので、他の見送りの奴とも会えるだろう、と思い、行った。
晴れた昼に、皇居の庭に友人と座り、僕は寝転んで、なんてことのない話を聞いていると、随分久し振りな気がした。
校舎の中庭の桜の木の下に、今でもいるような気さえする。
昔の友人、そう言うようになったのは実に寂しいことだが、彼らとは会ったとて何か劇的な夜があるわけではない。大体十六歳の頃の夜と同じような気分で、同じような会話を交わす。昨日も明日も廊下で会うような気もしてくるし、実際にそのように会話する。
それらは勘違いでしかなく、僕でさえ彼らに寄せるように話をする。数年前は随分それが嫌だったが、高校を卒業して四年も経てば、それも別にそういうものだと思えるような気がするし、とりたてて寂しくなるものでもない。
その、地方に行く友人とは別の友人とこの前ふと会った時に、十五歳の夏の井の頭沿線の夜があればまあこれからもなんてことはないよ、という話をした。あれは2017年のことだ。
もう高校の頃の毎日の友人など、年に一度か二度会えれば大したものなのだ、その度に昔を確かめるだけでも仕方がない、それでも確かに僕の毎日の影には十五歳の毎日が薄く沿っているような気がする。

最近やはり酷く個人的な人間になったような気がするし、元来の孤独主義が拍車をかけているような気さえするが、缶コーヒーに煙草など、それしか娯楽がないとしても、それに纏わるものだけは、どうかくだらない憐憫にならないようにして、この予感さえ遠い梅雨前の入り口に分け入っていく。

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