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弱音を吐くなら、知恵を出せ。

【 弱音を吐くなら知恵を出せ−誰が為の人生 】

みなさんの生きる「目的」ってなんでしょうか?
何を想い、何を考え、そして何をしてみなさん「生きて」いるのでしょうか?

それぞれ明確な答えがある方もいらっしゃれば、そうでない方もいらっしゃると思います。

人生って素晴らしいですよね。
そう思って生きている、僕の人生を少し振り返ってみたいと思います。

大手企業のエースでイケメンな父親と、10歳年下で社内で最も美しかったという母のもとに生まれました。
尊敬できる両親のもと、何不自由なく育ってきました。家庭内では。

第2子かつ長男である僕におこなった、両親の教育は

・あなたは特別な存在である
・どこの子供よりもあなたは優秀である

今思うと典型的な毒親であるのだが、そこにある確かな「愛情」は受けて育ちました。
とにかく可愛がられ、仕事で忙しい父親からも休日にはしっかりと愛され、育ちました。
家庭内では。

そんな教育を受けた僕は、幼稚園の頃から既にスーパースターでした。
ドッチボールは園で1番、かけっこも1番。
毎日迎えに来る母親にその日にあった出来事を、よその子供や母親もいる前で報告をし、それを聞いて嬉しそうに笑う母親の顔を見るのがとても楽しかった。

小学校にはいってもその構図は変わらなかった。
勉強に関しても恐ろしく出来た僕は、それはもう誇らしい息子であったのではないだろうか。
そして、そんな僕の様子の報告を受ける父親も誇らしかったに違いない。

小学校2年生ぐらいなると、「子供社会」というものが徐々に構築されていきます。
そんな両親の教育を受けてきた僕は、徐々に周りの友人達とうまくいかなくなっていきます。
子供ながらにストレスを抱え、そしてそれを親にも言えない。
そう、歪んだ形で育った当時の僕の自己肯定感は、親からの称賛でしか満たされなかった。
当時、いじめというものが社会問題として取り上げられだした頃だったのですが
「あなた、学校でいじめられてないでしょうね?そんな格好悪い事、あなたに限ってないわよね」

既に2年生の頃から、学校での人間関係は上手くいっていなかった。
それでも親に言えなかった。彼らの悲しむ顔を見ることは、自分を苦しめたのだ。

そして僕は、日々「嘘」に塗れた報告を母親にする。
当時最も怖かったのは三者面談であった。
僕から受ける報告と、先生から受ける報告のギャップ。
それがまた母親を苦しめることになる。

みんなと同じ習い事を僕もしたかった。
だけどもさせてもらう事はなかった。

理由は、父や母の好むものではなかったから。
何より、程度の低いとされる子どもたちとの交流を、僕の両親は嫌がった。

5年生になった。
僕はついに学校で暴力事件を起こす。
いじめられているっぽい子供として、周囲に認識されていた僕は学校内ではクラス1優秀な友人で周りとも上手くやっている彼につまらない事を言われ(その頃の僕は、勉強の見た目はクラスで1番であったのだが、実は2番であった)激昂した僕は、その彼の顔面に渾身のパンチを叩き込む。
騒然とする教室内、体格の大きな他の子供に押さえつけられ、叩き込んだパンチの何倍ものパンチや蹴りを食らう。

その日の夜、母親は父親の目の前で泣いていた。
父親からは「お母さんを泣かすような事はするな」と言われ、僕の歪みきったルサンチマンは更に心の奥底に沈んで行く事となる。
誰にも助けを求める事ができない。

翌日から自他共に認める、一人前のいじめられっこが誕生した。

見た目はそこそこいい。勉強もできる。運動もそこそこできる僕は、大人達からみたらいじめられているようには見えなかっただろう。
そして僕も、いじめられっこと認めたくない。だけども実は誰とも心を通わせる事のない、そんな小学校時代を過ごした。

中学生になった。
リア充な彼らへの羨望から、僕はサッカー部に入部する事となる。
当時の新入部員は12名、そのうち未経験者は僕だけ。
野球が大好きであった父親への反発と同じ小学校からあがってくるいじめっこ達との関係も修復したかったという不純な動機で始めたサッカーを44歳になった今でも続けている。
サッカーを始めた事、続けてきた事で僕の人生は素晴らしいものとなるのだが、この頃は地獄であった。

テストで97点を取った。
嬉しくて、両親に報告をした。
父親からの言葉はこうだった。

「世の中は、100か0しかない。」
その後も何か言っていたのかもしれないが、全く頭に入らなかった。

いじめっこ達との関係修復への希望もあり入ったサッカー部。
強豪校であったうちのサッカー部で、最後の最後までレギュラーになる事はなかった。
中学校でもいじめは継続していた。それでも、引退をするまでは何とかギリギリ学校には通えていた。
中3の夏、クラブ活動の引退。練習がなくなり時間をもてあましたいじめっ子達。
いじめはいよいよ暴力化してくる。

毎日毎日殴られ続ける日々。そしてやり返すこともできない僕。
限界を感じた僕は、彼らを殺そうと考えた。塾帰りの彼らを待ち伏せして、バットで撲殺しようと考えた。
待ち伏せまではできた。
隠れている僕の目の前を通り過ぎていくいじめの主犯格二人に対して、僕は何もできなかった。
怯えて、身体も動かなくて。

その日の夜、僕はカーテンレールにベルトを引っ掛けて、首を吊った。
カーテンレールに15歳の僕の身体は重く、ぐにゃりと曲がり、僕は床に落ちた。
死ぬ事もできなかった。

翌日初めて、母親に言った。
「いじめられてるので学校には行きたくない」

学校へ怒鳴り込みの電話をかける母親
その日の夜、教頭先生と担任の先生がうちにやってきた。

「大介くんは、勉強もできますし、お家も経済力がお有りなので、私学に進学してはどうか」

どうやら学校で問題児であったのは「いじめられっ子」である僕の方だったようだ。

高校に入った。
地元でも有名な進学校だ。そこに来ているのは僕と同じような勉強はできても学園ヒエラルキーで底辺の人間ばかり。
同じ塾の子たちもいて、ようやく友人らしきものができた時。
同じ中学校出身の人間に絡まれた。そして僕は戦った。
サッカーを真面目にしていた僕は、小柄ながら体力もあり、喧嘩に勝ってしまった。
謎のアドレナリンが僕の体内を駆け回り、その日から僕は中学校とは真逆の学園生活を送ることとなる。

高校のサッカー部は弱小チームであったが為に、1年生からスタメンにもなった。
それでも、人との距離感がわからなかった。
幼少期に培うべき大事なものを、僕は身につけていなかった。
友人はいるのだが、心にポッカリと空いた穴は埋まる事はなかった。

それなりの高校生活を送り、大学受験となるのだが
高校時代にろくすっぽ勉強をしなかった僕は、有名大学にはいけなかったのであるが、そこそこの大学には通ってしまった。中学時代のガリ勉の貯金で、現役で受かってしまった。
それにより、僕のちんけなプライドはまた維持される事となる。

大学にはいった。
この頃になると親はすでに僕の事は諦めており、あまり会話もなかった様に思う。
まともに勉強もせずに入った大学、学ぶという事の価値を全くわかっていない僕はチャラチャラと遊び、心に空いた穴を埋める為に、両親では無く同世代の称賛を浴びたいと考えるようになる。
高校にはいった時158cmしかなかった身体は、175cmになっており見た目もそこそこよかった僕は舞台俳優の養成所の門を叩いた。

「普通でない人生」を選ぶ僕は、当時の周囲の人間からはきっと輝いて見えたのだろう。
小さな劇団を主宰したりもするのだが、なんの信念もない、ただただ目立ちたいだけの若者が芸能の世界で上手くいくわけもなく。
それでも、スーパー歌舞伎や有名演歌歌手の歌謡ショー、大阪ローカルのドラマの端役等の実は誰でもできる仕事だけは入ってきた。

この頃、人生を替える出会いが2つあった。
大分から出てきた親友と、初恋の彼女だ。
2人に共通していたのが「まっすぐな朗らかさ」であった。

彼らと出会うことで、少し人に心を許せる様になった。

ある事件があり、大した志のない僕はあっさりと役者業を諦める。

実家に帰り、父親に「学校に戻らせてください。」と土下座をした。
その頃、上場企業で役員になっていた父は僕にこう話をした。

「あなたは今とんでもない挫折感を味わっているだろう。でも、これからもっと大きな挫折は必ずやってくる。だから頭をあげなさい。そして、大学の卒業証書の紙切れ1枚が、あなたの人生の得になる事はあっても損になる事は絶対にないから。大学だけは卒業しなさい。」

情けなかった。
結局僕は、何も出来なかった。

復学し、年下の同級生たちと楽しい時間を過ごした。
そして就職活動の時期がやってくる。

なんの努力もしなかった。

社会的地位のある父親のコネで、小さな金属加工メーカーに就職が決まった。
いじめによる自殺未遂を経て、やんちゃになって家を飛び出してもなお、僕のヘタレ根性は何も成長していなかったのだ。
何のスキルも力もないお金持ちのボンボンがそこにいた。

入社時、なんで俺がこんなしょぼい会社にいなきゃならないんだとか考えていた。
ところが、技術職であるがゆえに、何もできない。
どう考えても頭の出来の悪いおっさんどもの方が成果を出している。

相変わらず僕はふてくされていた。

会社の近くでゴミを拾うホームレスを見かけた。
直感的に僕は気づきました。

今、この会社にいる。
それは俺の社会的評価そのものなのではないか。
結局口ばかりで、何も努力をしてこなかった俺の、人生の結果がここなんじゃないか。
このまま何も努力せずにいたら、両親が死んだら。

ゴミを拾うホームレス、それはまさに未来の僕であった。

その日を境に、僕は変わった。
圧倒的な努力をした。

すぐに結果は出た。
たった1年で、技術営業なのにトップセールスになった。
また天狗になりかけた。

入社して1年後に、天狗になりかけてた僕は転職を考えた。
俺なら「こんな」会社じゃなく、もっと上の世界にいける。

そう思っていた矢先に、大手からある人物が顧問として入社してきた。
30歳年上のその人との出会いが、僕の人生を、人生観を大きく変えた。

彼は僕にいつも問いかけた。
・お前の人生の目的は何だ
・お前が仕事をする目的は何だ
・弱音を吐くなら、知恵を出せ

自分の世界でだけ生きてきた、なんだかんだで上手くやっていた「つもり」の僕に「本質」を教えてくれた。

顧問と僕とで、圧倒的な成績を叩き出し続けた。

ベトナムに自社工場を出すという大きなプロジェクトが実現しかかった頃
顧問から退職の意を告げられた。

会社の乗っ取りを恐れた社長は、僕と顧問との隔離政策を実施していた。
さらに社長は友人である僕の父親に、顧問の悪口を伝えていた。
ベトナムに自社工場を設立するという、社運をかけたこのプロジェクトを実現間近のこのタイミングで、社長は顧問をこのプロジェクトから外したのである。

人生の師匠であり、親よりも親な顧問に対して僕はまた泣きついた。
「あなたがいなくなって、僕はどうすればよいのですか。この会社でどうやって生きていけばよいのですか。」すると顧問は僕にこう言った。

「これはな、わしの生き方の問題なんや。わしは綺麗事や無く、お金の為に働いているわけではないんや。
人間として、男としての尊厳の話や。お前はもう十分に成長した。社内に仲間もできた。わしの目的は達成した。」と

僕以外にも、顧問の教え子はたくさんいた。
彼らの中には、このタイミングで退職する顧問を非難する者もいた。

目的は何か。

顧問は自分の「義」を通しただけだ。

「わかりました顧問。今まで本当にありがとうございました。」
僕は一人の男として、顧問を見送った。

「サラリーマン最後の6年間を、お前と一緒に仕事が出来て本当に楽しかった。ありがとう!」
最後の最後まで、カッコいい顧問、僕が死ぬまで人生の師匠です。

その数年後に、東日本の震災がありました。
当時34歳、社内では既に部長職であった僕は、なんだかんだある中で過去とはレベルは違えど「それなり」に充実していたのですが。。。
大切な事に気づきます。

俺の生きている目的はなんだ?と。

翌年僕は、全く畑違いのコンテンツ製作の会社にコピーライターとして入社します。
創業間もないどベンチャーで、今までのいわゆるサラリーマンとは全く違う働き方の世界で
35歳の未経験の新人はがんばります。
ここの会社は本当に素晴らしい会社で、全てが自己責任で進める事ができました。

2年後、この会社が出資絡みの人間関係のトラブルで崩壊します。
やっぱり、人って残酷なんですね。自己保身や利益の為に嘘をついたり、人をあげつらったり。
それもまた僕たちの生きる世界の真実のひとつなのでしょう。

37歳になった僕は、就職するのもなんだかな。。。
悪い癖ですね、37歳になっても僕は「何とかなる」という浅はかな考えで、軽い気持ちで当時の仲間と起業します。

友人との共同経営は気をつけた方がいい

先輩たちの忠告通り、半年ほどで緩やかに僕の会社は崩壊していきます。
売上も無いのに、借金ばかりが増えていく。
1年後、会社は代表取締役である僕ひとりになりました。
もちろん、借金も一緒にね。

その頃に出会った女性と38歳の頃に結婚します。
そして39歳、子供が生まれました。
家族も増えた僕は、新規事業にチャレンジします。
金融機関から大きな借り入れを実行し、育児と新規事業立ち上げに奔走する日々。
事業理念は素晴らしいとの多くの方々の評価もあり、キラキラとした想いとは裏腹に、実際に数字に反映されない現実

新規事業の立ち上げから1年半後、多額の負債だけを残し、その事業から撤退します。

これだけ素晴らしい事業なんだ、誰かが絶対に助けてくれる。
根拠のない、謎の希望だけで推し進めた新規事業

僕は何もわかっていなかった。
僕の見えている世界よりももっと世界は広く、想像もつかないぐらいに残酷で、それでも世界は回っているんだ。むしろ、そんな人達がほとんどで、それは無自覚であり、僕もその一員なのだと。

何より

「自分で動かないと、誰も何もしてくれない。応援はしてくれても支援はしてくれないんだ。」

事業は撤退したけれども、そこで生まれた新しいアイデアの数々。
それを実現する為に、そして日々の生活を成立させるために拾い仕事をしながら食いつなぐ日々
何とか、何とか。。。。
何ともならない日がやってきます。

僕は人生2度目の自殺を試みようとします。
もう少しで、オフィスの窓にかけたベルトに首を括る。
その瞬間に、顧問の声が僕を貫きました。

「弱音を吐くなら、知恵を出せ」

1人でオフィスで泣きました。
大人になってこんなに泣いたことが無いくらいに泣きました。
親友の経営者に電話をしました。

後輩であり、友人である彼はすっとんできて、そして僕を叱りました。
「今お金がないのは、佐々木さんがチャレンジした結果でしょ?何も悪くない。
いい加減プライド捨ててください。チャレンジしただけで、何も悪くないじゃないですか。
失敗したのは、実力がなかっただけで、また受け入れてチャレンジしたらええやないですか。」

僕は41歳になってもまだよくわからない、優等生シンドロームに取り憑かれていたのです。
地に足をついた努力もせず、人生を「うまい事」やろうとしていたのです。

それから数カ月後、妻は子供を連れて僕のもとを去っていきます。

二度の自殺未遂を起こしても尚、まだまだ僕はわかっていなかった。

愛する子供を連れ去られるという、自分にとって最も残酷な出来事でようやく自分以外の、他者の世界観を想像する、知る

という事に気付かされたのです。

15歳、そして41歳
二度も自らの命を断とうとしましたが、その理由もそこに至った要因も全て
他人からどう見られているか、どう思われているか。それを目的とした事にあります。

つまりは、自分の人生を生きていなかったのです。

何の為に生まれてきたのか。自分は何をして人生を全うしたいのか。
青臭いと言われようが、そこに答えがあります。

今、発達心理学や脳科学、更には東洋思想も通じて色んな事を皆様にお伝えしています。

幼少期〜10代の頃に、無自覚的に創られた自分自身の根源的な欲求。
それをしっかりと自己認識し、そして誰から何を言われようともそれを実現していく。

その為には「根拠のある」自己肯定感が絶対に必要です。

幸せに生きるって、実はそれだけで実現するんですよね。

朧気ながら自分の生きる「目的」を感じだした20代、なんとなく見えてきた30代、そして明確になった40代。

そこに至る代償は大きかったですが、それは全てにおいて、僕が僕自身で人生を創ろうとしてこなかった事に起因しています。

おかげさまで今、僕は二度目の結婚をしています。
一回目の結婚生活とは180度違う、幸せで、自分らしく生きていける事のありがたみと素晴らしさを実感しています。

皆さんの人生、誰の為の人生でしょうか。皆さんの「生きる目的」はなんでしょうか。
人生は、本当に素晴らしく、美しいものです。

そう感じる人生を送ることこそが、自分らしく生きる事こそが本当の「幸せ」なんじゃないでしょうか。

もし今、人生で一歩が踏み出せないでいるのであれば、自分らしく生きるという事がどういう事か。そしてそれはただのわがままであり、楽をしようとしていないかどうかをよく考えてみてください。

本当に自分のしたい事であれば、苦労なんてありません。
努力は必要ですけどね。

何かしらの不平不満や焦りを持って生きている人の共通点は
「手前勝手」です。
わかりやすく言うと、自分の事しか考えていないという事を認識していないもしくは受け入れていない。

人間っていうのは本当に矛盾している存在です。
自分の中の醜い感情をどこまで認識できて、そして受け入れられるか。

そこに気がつく事が一番大事です。
いわゆる「足るを知る」という奴ですね。

僕はもう、逃げる事も、弱音を吐くこともないだろう。
僕の人生は、僕のものであり、誰のものでもない。

自分の中の本当の汚らしさと弱さを知った時。それが本当の意味でのどん底なんじゃないでしょうか。

まずはどん底を知ってください。

僕たちは歓喜も悲哀も飲み込んで人生を過ごしていきます。
歓喜と悲哀、この矛盾をどこまで理解できるか、納得できるか、そして愛せるか。

しっかりと根拠をもった自己肯定感を身につけましょう。

弱音を吐くなら、知恵を出せ。

INDEPENDENCE ACADEMY  代表 佐々木 大介

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