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【ショート小説】大好きなご主人に捨てられてしまうかもしれない。

 ご主人は数年前、僕を家族の一員として家に迎え入れてくれた。その日から僕はずっとご主人が大好きだし、ご主人にも僕のことを大好きでいてほしいと思っている。それなのに、僕の行動はいつも空回りしてしまう。

 僕は自分のことを、つくづく貪欲な生き物だと思う。

 ご主人が仕事で家を出たあと、僕はご主人の作業机の上においしそうなパンが置いてあることに気が付いた。一度そのことがわかってしまうと、僕の頭の中は机の上のパンのことでいっぱいになった。けれど、あれはご主人のパン。あのパンを食べたら、ご主人は僕を叱るだろう。僕は必死でパンのことを頭から振り払った。第一、あのパンは高い机の上にあるんだ。僕が食べたくても食べられるものじゃないさ。そう自分に言って、僕はいつものようにご主人が帰ってくるまでの長い時間を窓の外を眺めながら待つことにした。

 ご主人の帰りを待ち始めて十分が経過した。僕は昼寝をしようと思ったのに、ずっと眠れずに苦しんでいた。というのも、あれからずっとパンの香ばしい匂いがして、眠るどころではなくなっていたからだ。お腹がぐうと鳴る。僕はどうしても、もう少し近くでパンの香りをかぎたくなって、ご主人の机の方へ歩いた。もう少しパンに近づきたい。僕はその場でぴょんと跳んでみた。一瞬だけ、より強くパンの香りを感じることができた。僕の前足と机の縁はあと少しで触れそうだった。また跳んでみた。すると一度目よりもさらに前足は机に近づき、爪がほんの少しだけかすれた。僕はいつの間にか我を忘れて机の上のパン目がけて何度も跳んだ。そして遂に僕の前足は机に届いて、パンを落とすことに成功した。僕は無我夢中でパンに食らいついた。

 パンを食べ終えて冷静になったころに僕は、すぐ近くで、ご主人がよく触っている書類が散らばっていることに気が付いた。それは、僕が気づかずにパンと一緒に落としてしまったもののようだった。目の前にはご主人のパンの残骸と散らばった書類。僕はまたやってしまったと思った。どうしよう。こんなに汚してしまったらご主人に強く叱られてしまう。僕は重い頭をぶら下げて、また窓辺へと向かった。

 歩いているときに僕ははっとした。僕の恐怖はさらに大きくなっていく。もしかしたら、今日という今日は僕は見限られて、捨てられてしまうかもしれない、なんて考えが浮かんできたからだ。その瞬間、僕は血の気がさっと引いていくのを感じた。
「お前なんかよりもっと賢くて悪さをしない犬を飼うことにする。お前はもういらない。出ていけ!」
ご主人の声が聞こえるようだった。足元がなんだか生温かい。変な異臭もする。床を見てびっくりした。僕は今、お漏らしをしている。止まれ、止まれと思っていても止まらない。近くのシーツにまで届き、シミができてしまっていた。

 尿意が止まると僕は怒ってワンワン吠えた。僕はどうして何事も我慢できないんだ。どうしてこうなってしまうんだ。吠えたところで事態は何も変わらない。やったのは僕だ。僕は悲しくなった。ご主人が落ちた書類を拾い集める姿や汚くなった部屋の後始末をする姿が思い浮かんだ。僕は、僕が嫌いだ。ご主人に捨てられても無理はないのかもしれない。急に、この部屋を飛び出したくなった。どこか遠く、静かで誰もいないところへ行きたい。

 夕日が沈み始め、部屋はずいぶん暗くなった。いつもよりも部屋の中が寒い。よく観察してみると、窓が少し開いていて、外の冷気が入ってきているようだった。僕はその窓の隙間を爪で何度もカシャカシャとひっかいた。徐々に窓は開いていき、僕はそこからベランダへ出ることができた。ベランダの柵の隙間は僕がちょうど抜け出すことができるくらいに広かった。僕は外へ出ようと思った。捨てられてしまうことを想像すると、僕はご主人の姿を見ることすら怖かった。この恐怖から逃げ出したい。家を出て、ひたすら僕は歩いた。ご主人がこんなに怖いのに、それでも僕はご主人が大好きなままだった。ご主人の家が見えなくなるまで歩くと、僕は泣きそうになった。

 行く当てのない僕は、しょうがないのでご主人と一緒に散歩した道を思い出して歩いた。ご主人に買われるまで住んでいたペットショップ。ご主人に買われた日、僕はご主人に抱きかかえられて家まで運ばれた。ご主人がよく買い物をするスーパー。僕はよく自動ドアのすぐ近くでご主人の買い物が終わるのを待っていた。ご主人はいつも待っていた僕の頭を撫でて、ご褒美としておやつをくれた。ご主人と一緒に歩いた並木道。ご主人と一緒に上った階段。ご主人と一緒に遊んだ公園。

 歩き疲れた僕は公園の東屋の中で佇んでいた。空は夕日の色に染まっている。風が吹いて、草が揺れて、虫が鳴いていた。公園の出口の方を見る。ここから先は、僕の知らない道だ。この道の先を僕は想像した。
どこまで続いているんだろう?
きっとどこまでも続いているんだろう。
僕はもうほとんど見えなくなっていた夕日に向かって吠えた。この先の道を僕は進みたくない。けれどご主人の家に戻るわけにもいかない。僕は一歩も動けずに体をこわばらせた。

「誰か僕を助けて!」

僕は喉がかれるまで吠え続けた。けれど誰も、僕の声を叱ることも気づくこともなかった。

 夜が来て、電灯が僕を照らした。静かに月が見守るなかで、僕は疲れ果てて横になった。何かいい夢が見れることを期待して、僕は目をつむった。

 僕は夢を見ている。何もない真っ黒な闇のなかに僕だけが存在している。独りで下を向いている。僕は夢の中でも目を閉じる。その時だった。
「ポチ!」
遠くから、聞き覚えのある声が聞こえる。
「ポチ!」
僕の大好きなご主人の声だ。
目を開けると、そこにはたくさん汗をかいて、息を切らしているご主人がいた。僕がご主人を見つめると、ご主人はしゃがみこんで独り言のように
「よかった、遠くに行ってなくて、本当によかった」
と言った。そして僕に手を差し伸ばした。
「ポチ、帰ろう」

 ご主人は僕を抱きかかえて、家まで歩いた。家に帰ると、ご主人は散らかっていた部屋のことで僕を叱った。けれど、寝るときには僕をベッドの中に連れてきて一緒の布団で眠った。

 ご主人の胸に顔をうずめながら、僕はまた夢を見た。ススキが光る野原の中で、僕はご主人を背中に乗せて走っていた。その野原は地平線の果てまで続いていた。けれど僕は、何も怖くなかった。僕はどこまでも、どこまでも、ご主人と一緒に走り続けた。

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