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アイドルと日々(Spring day)


一寸先は闇だ。
昔SMAPも歌ってた。

もともと未来のことなんて誰にも分からなくて、明日なんて見えるわけはなくて、そのうえ、今、世界は謎のウイルスに侵されている。


この世界には私の想像を絶するようなひどいことがたくさんあって、想像もできない悲しい歴史や事件にまみれている。私にとって、その多くは他人事だった。
1999年のノストラダムスの預言のときもその後なぜか登場した本当のXデーもみんなが恐れている多くの地球の天変地異も、なぜかいつも私だけは大丈夫だと思っていて気に病んだことがない。
だけど今、それは私の楽しみにしていた旅行やライブや重要な案件を次々に潰し、私の平凡な生活さえも脅かしている。
この国は大丈夫だろうか?…そんな漠然とした不安をきっと多くの人が抱えているだろう。みんな明日が見えなくて、一寸先の闇に怯える毎日だ。


だけどあのSMAPのうたの続きはこうだった。
“一寸先は闇だけど、どうにかなると信じたらその日をこなしましょう”
そんなメッセージがあの歌には込められていたはずだ。

良いことなんて何にもなくても、明るい未来を信じるしかないのだ。
どうなるか分からない明日に悲観したって仕方がない。



“ただいっさいは過ぎていきます”
太宰治の「人間失格」に出てくる一文だ。
ただ、すべてのものは私の前を通り過ぎていくだけだろう。
悲しかったり苦い思いをしたり、嬉しい気持ちを一人で噛みしめることも誰かとケラケラと笑い合うことも、すべてただ、通り過ぎていくだけだ。
100日で消えてしまったワニくんのように、人の命の長さは誰にも分からない。
だけど私や私の周りにいる好きな人たちや私の苦手なあの人も、きっと多くの人が、ワニくんのいなくなった世界を図太く生き抜いていくだろう。
人間には、悪者よりもはるかに多くの、心優しい天才がたくさんいるのだから謎のウイルスと共存できるようになる日もそのうちやってくるはずだ。


ただ過ぎていく非日常は、ある意味とても面白い。
いつもは嫌味なあの人が意外にも心優しく、励まされるようなすてきな言葉をくれたり、いつもきれいごとばかりのあの人が、案の定起きてもいない事に文句ばかり言ってくそネガティブなオーラを撒き散らしたりしている。非常事態はその人の心の本質をあぶり出す。どんなにきれいに自分をラッピングしたって本当に他人を思いやれる気持ちがなければ、必ずボロが出るのだ。



予定外に暇になった時間にたくさんの映画を観た。
中でも『新感染』と『グエムル』はまるで今の世界を予言していたようなストーリーだった。
恐ろしい何かを前にした時、本当に恐ろしいのはそれに怯える醜い大衆の真理だ。
映画の中でウイルスに侵された人は、その瞬間からまるでその人自体が黴菌のように扱われ大衆の敵となる。さっきまで同じ人間だったのに、人はみんな自分が一番かわいいから、映画のメインキャラクターたち以外、誰も助けてはくれないのだ。
今のこの世界はどうだろう…?『グエムル』で横断歩道の信号待ちの人混みの中、咳き込んだ人をみんなが怪訝な顔で見たり距離を取りたがるシーンがあるけれど、私には、あの過剰に反応している人たちの醜い心がとてもとてもよくわかる。



非日常は人の醜さをあぶり出すけれど、一方で良いこともある。
ペラペラのラッピングが剥がれてしまった身勝手でかわいそうな人がいる一方で、普段は気づけなかったいろいろな人のとても親切で他人を思いやれる一面をたくさん見れることだ。ネガティブな声は広がりやすいけれど、そのネガティブな声の倍以上の人は、きっと黙って冷静に物事を見ているんじゃないかと思う。
時に声を上げることは大切だ。だけど冷静さを欠いた人の前では、誰もが正しく様々な正義が混在する世の中で、正しさをふりかざし合うことなど何も意味がない。
私の好きな人たちは不思議と同じことを話す。
もし自分が菌を持っていて、無自覚のまま、誰かにうつしてしまったらどうしようと言う。私はこの人たちのことをこの先もずっと心から信頼し続けることができるだろう。



まるでラストダンジョンのように、空に低い雲がうなだれているかのような世の中だけど、先日ドライブに出かけた海はとてもとてもキラキラと輝いてきれいだった。
空はとても晴れていて、私は「キラキラしてるね!」なんて恥ずかしいことを口にはしなかったけれど、私は密かにその青い空と水面の光を忘れないように心に留めていた。

また別の休日、一人ですることもなくてカフェのテラスでコーヒーを飲みながら本を読んだ。隣の席のおばさんがずっと病気の話と人の悪口ばかり言っていてイライラしたり、その反対側に座っていた若いお母さんたちが、何をしでかすか分からないまだ歩き始めたばかりの子どもに翻弄されながらも器用に自分たちの話を続ける手腕に感動したりしながらその場にいると、私を含むまるでバラバラの世界線がその場所に混在していてとても不思議で面白かった。
もう顔も分からないあの人たちが腹の中で何を思っていたのか知らないけれど、あの場所にはとても心地よい風が吹いていて、春がやってくる気配を感じた。



また別の日、通りすがりの道で梅の花が咲いているのを見た。
3月とは本来、そういう季節だった。


「春の日」という曲に出会って何度目の季節がきたのだろう?
“会いたいと言葉にすると余計に会いたくなる”
今、そんな詩がとても心にしみる。
会いたいと思ってとても恋しくなるけれど、私たちには文明の力があるのだ。いつだって会いたい時にはたくさんの思い出を、手のひらに収まる長方形の、四次元ポケットから取り出すことができる。
あの頃の大好きだったあの人をかけらを、最高におもしろくて笑わせてくれた瞬間を、いつだって思い出すことができる。
だから私たちはいつでも、今この瞬間を楽しむことができるのだ。


青い空に大好きな人の面影を見て、咲いた花に、隣の国の季節の温度を想って、
ただ通り過ぎていく時間の中で、不確かな未来のためにきっと今日も汗水流して生きている勇敢な背中を想って、私たちは今この瞬間を慈しむことができるのだ。




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