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アイドルと日々(Hello 2019)


一年が終わって、また新しい一年が始まった。
今年こそはと目標を立てて、実行したりすっかり忘れたりしながら、きっといつのまにかあっという間にまた次の年になる。

今日は昨日の続きで、明日は今日の続きなのにいちいち新しい年を祝うのはなぜだろう。新しい年になったからって、何かがリセットされる訳ではない。
失敗したことは消えないし、間違ってしまった選択は、間違ったまま続いていくし、後回しにしている約束は後回しにされたままだ。


年賀状を書く意味が分からない。
年賀状なんてなくなればいい。
本当は心の中が真っ黒で未来が不安だらけだったとしても、表面上幸せだった思い出の写真を貼り付けて、たいして親しくない人たちに大量に送りつける。
でも私には何も自慢できるものがないから、一言挨拶を書いたらおしまいだし、心を込めて届けてくれた手紙は嬉しいけれど、私みたいな、一言なんのへんてつもない挨拶だけの書かれた年賀状をもらっても、面倒なら出さなければよかったのにと思ってしまう。
だけどダメなやつだと思われたくないから、毎年毎年出したくもない便りを互いに出しあうのだろうか。

そんなことを思ってしまう私には、何か人として大切なものが足りない。
いつまでも独り身で、昔からの風習とかしきたりを大切にできない。
新年に家族や親戚で集まって過ごすというルールはいったい誰が決めたのだろう。いつもは一人で色んなところに出かけてもなんの苦痛もないし自由に気まぐれに過ごす時間はとても楽しい。
だけどお正月ムードの漂う街では、誰かといないととても肩身が狭く、隣に男性のパートナーがいないだけで、ダメ人間の名札を首から下げられてるような気分だ。他人のどうでもいい話を聞くのは苦痛でしかない。変な奴だと思っても、それは違うと思っても、私が発した言葉でその場が凍りつくのは目に見えているから、言ってはいけないことは言わないようになったけど、腹が立っても、その場を取り繕うために、笑ってごまかしたりしていると、誤解されたままよく分からない方向に話はどんどんずれていく。他人に勝手なイメージを貼り付けられて、言わなかった本当の私の心はどこかに閉じ込められていく。
世間からしたら、私なんていなくてもいいのだ。
子供もいなくて何の地位もないひとりぼっちの私は、この世界に必要のないゴミだ。


誰とも関わらないでいられたらいいのに。
そしたらずっと自分を大切に愛してあげられるのに。
誰かと関わらなくてはいけない世界の中で、いい歳して結婚をしていない私はクズだ。したくないなんて考えはおかしいのだ。
したくないからしないのか、したいけどできないのかと聞かれた。
私は何も言えず適当に濁したけれど、正確にはどちらも正解だ。
その場でしたくてもできないのだと言ったらどうなっただろうか。そんなこと聞くんじゃなかったと後悔させることができただろうか。
結婚さえしてしまえば、親を安心させることができるだろう。
独身の頃は送ってこなかった年賀状を家族ができた途端送りつけてくる友人の、幸せそうな写真に気まずさを感じることもないし、娘の幸福そうな近況をハガキの中の一筆に自慢気に書かせてあげることも出来るだろう。
だけど私にはそれができない。なんで私にはできないのだろう。

“他人と同じような幸せを 信じていたのに”…と歌う歌があるけれど、ただそれだけだったのに、どうして私にはいまだに何もないのだろう。


年末ごろにふと思い出した言葉がある。
樹木希林さんが、テレビのインタビューで話していた言葉だ。

ものには表と裏があって
どんなに不幸なものに出会っても
どっかに灯りが見えるものだという風に思ってる

そんなに人生捨てたもんじゃない

どうぞ面白く受け取って 愉快に生きて

あんまり頑張らないで でもへこたれないで

新しい年が来たらこんな風に過ごそうと心に留めていた。
頑張りすぎずへこたれないで、どんなことも面白く愉快に生きて行こうと思っていたけれど、どこかにあるはずの灯りはすぐには見つからない。

人を想って飲み込んだのに、私の気持ちは閉じ込められたまま、恩を仇で返されるように、よく分からないことで責め立てられる。誰にも言葉の通じない世界にいるみたいな気分で、一人じゃないのに本当にひとりだ。
今日かわいそうだった私は、人知れず心の奥で泣いていた私は、明日の私を彩るのだろうか?


少し時間が経ってみると見えてくる世界がある。
私は一人だけど、一人じゃない。
似ている悲しさや寂しさを抱えて、それでもそんな話は一つもしないで、くだらないことで笑いあえる友達がいる。冗談交じりに、私を心配してくれる友達がいる。
テヒョンくんが言っていた。よく合う人と良い話をたくさんしていけばいいと。
それはあまりに当たり前のことのようで、小さく見逃してしまいそうだけれど、ものごとの裏側にある“どこかに見える灯り”なんだろう。



大好きな人の書いた曲を思い出す。

太陽が昇る前の夜明けが一番暗いから
遠い未来に、君は今の自分を絶対に忘れるな
今君がどこにいようと しばらく休んでいるだけのこと
諦めないで 分かってるだろ?

こうして心を強くしてくれる言葉たちが私の中にある時、慰めてくれる歌がそこにある時、私はとても幸せだと思う。
他人に理解されなくても、それで私は幸せだ。
だけどもっと欲しい。
誰にも必要とされない、邪魔なだけのゴミのままではいたくない。
他人と同じじゃなくていいから人に誇れる、もっと大きな幸せが欲しい。


こんなことでへこたれてたまるかと思う。
私がいてもいなくても世界は何も困らないけど、世界はとても広いから、どこかに私と同じ言葉を話す誰かがいるかもしれない。
52ヘルツで鳴くクジラの周波数は日々変化しているらしい。その声が誰かに届く日は来るのだろうか。その存在が、いなくてはならないものになる日が来るのだろうか。



生きてさえいればどうにでもなるのだと朝のドラマが言っていた。

幸いにも私の世界は、また新しい一年を始めてくれたから、
どうせなら、面白がって愉快に過ごしてやりたい。




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