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アイドルと日々(二月の散文)



思えば世界が変化してからというもの、夜明けまで誰かとドライブをしたり話し足りなくてファミレスへ移動し話し込み、バカな話をしていたはずがいつの間にか真面目な話をするようなそういう日常がなくなった。
そのせいだろうか、それとも大人になるとはこういうことなのか、予定が詰みこまれた楽しかったはずの休日明けの倦怠感ったらない。
誰かといるのも楽しいけれど、一人でだらだら過ごす無益な一日も私にはとても必要だ。

“繊細さん”という言葉が流行っていてそれに救われた人がいるのはとても良いことだけど、一方で一人の時間が必要だなんて言うと、もしかして…と一括りにされるのかもしれなくてそれは何となく気に入らない。
人には色々な面があり、あらゆる特徴やその特徴の濃度や組み合わせ、対峙する相手の立場によって、良い所にも悪い所にも転ぶのだから、簡単にこの人はこういう人だとカテゴライズすることを人にしたくはないしされたくもない。


この世界には想像を絶する悪人と、どうしてそんなに優しくいられるのか…と心配になるほどの善人がいる。
そして多くはそのどちらでもない人たちだ。
上手く付き合ってきた人でも、相手のコンディションによって突然“無茶な事を言ってくる人”に変身することもある。
特に相手が一緒に働いている人だったり仕事上の付き合いの場合、無視する訳にはいかないから、何が正解か分からないまま自力で対処するしかないのだ。

理不尽な主張を押し付け、ヒステリックになっている人が目の前にいたとして、どうするのが正解だろうか。
こちらに余裕があるときには、いったいこの人はどうしたんだ…と引き散らかしながら、なんて可哀想な人なの?とより怒りを買うぐらい気の毒な顔で見てしまったり、こちらもイライラしていたりしたら最後、なんで私が当たられなきゃいけねーんだよ?舐めた事言ってんじゃねーよという気持ちで正論を突きつけて相手の痛い所をほじくり返してやりたくなるのが気が強く愚かな私の常だ。
だけど、そのどちらも確実にやってはいけない事ぐらいはそろそろ分かるので、新しく手に入れた心理学の知識を元に対処したら肩透かしをくらったかのように簡単に解決した。知識ってすごい。
しかし、堪えた私の怒りや言わなかった私なりの正論はもやもやと心にとどまったままだ。隠された私の感情は、どこにいくのだろう?
運が良いとか悪いとか、占いは信じないけれど、理不尽な仕打ちや厄介な人を引き寄せるといった現象は不思議と続くもので、知人に聞かれたから返事した予定の相談は一生既読スルーされているし、ガミガミ言われて疲れた日、帰りに寄ったコンビニでの会計時に声が聞こえないと言われた。
?!?!
聞こえなかったとしても「聞こえない」という棘しかない表現はこの場合避けるべきだ。マスクや意味があるのかないのか分からないビニールの壁などあらゆる隔たりを突き破らなかった私の声も悪かったのかもしれないけれど、明らかに私ではない誰かに苛立った状態のままレジに立っているその横柄な態度はなぜ?????

そんな日をやり過ごして、私の愚痴を聞いたある人が言った。
理不尽に何かを要求し、自分は間違っていないと主張する人にとって、問題はそこにはなく別の場所にある事が多い、のだと。そういう人たちはきっと自分の生活に幸せを見つけられない悲しい人なのだろう、という思いもよらない思考に、私は私の周囲に冷静で賢い大人がいてくれることに感謝した。
ありがたいな…と思ったその瞬間からいつのまにか私の中の子どもじみたドロドロの気持ちが消えていたような気がする。

いつだったか、おかしな人たちに絡まれてじっと黙っていた推しの姿を思い出す。
あの時の彼はとても若かったのに、なんであんな大人の対応が出来たのだろう?
彼らの本心は見えないけれど、いつかまた理不尽な怒りをぶつけられることがあったら、“私の好きな人たちだったらどうするだろうか?”と考えようと思う。



先日『すばらしき世界』という映画を観た。
公開日に張り切って観に行った映画の中に
“レールの上のその人たちも幸せじゃないから
はみ出した者が許せない”というようなセリフがあった。その言葉の向かう先は違えど、偶然にもそれは、ついこないだ聞いたような言葉だった。
幸せじゃないから、異質なものを受け入れられない。幸せじゃないから責めて、吊し上げて叩くのだ。


映画のネタバレは避けるが、終盤のあるシーンでスクリーンのこちら側の多くの人の価値観がひっくり返されるだろう瞬間がある。
社会のレールからはみ出した“危険人物”である、あまりにも真っ直ぐな主人公が社会に適応する瞬間、その苦い笑顔に胸が締め付けられた。
レールの上の身勝手な私は、もういいよと思っていた。自分を失うぐらいなら、心に嘘をついて薄汚い色に染められるぐらいなら、変われない方がマシだ…なんて、とんでもない感想を抱いた。

果たして、自分の感情を押し殺し心の内側で物事に折り合いをつけ、波風を立てないように上手くやり過ごすのが、大人になっていくことなのだろうか?それが良い人間になるということなのだろうか。


私はどちら側にいるのだろうか?
幸せなのだろうか?
健康な心と身体があることはとても尊いことだと思う。
美味しいものを好きなだけ食べて、ほしいものを買って、好きなことをして過ごせる時間があることはとんでもなく幸せな気がするのだけれど、私の幸せの基準は低いのだろうか?


ただ確かなのは、いつの間にかどんなに腹の立つことがあった日も地味な不運が重なったとしても、どツボにハマって腐ることなく、喉元すぎれば夜のささやかな楽しみを思って浮かれていられるし、大好きな人の曲に出てくる言葉のように“すべては通り過ぎていくハプニング”だと思えるようになったことだ。大人になるってこういうことなんだろうか?



2/15
雨上がりの重く垂れ下がった雲と吹き荒れる風を浴びて大好きな人たちに会いに行くあの感覚を思い出した。
バケツをひっくり返したような土砂降りの雨音、雨上がりの街の匂い。
そのすべてに懐かしさが宿る。
今度あの場所に向かうとき、私はあの頃より、少しは良い人間になれているだろうか。


“君は僕を良い人間になりたいと思わせる”


『恋愛小説家』の有名なセリフを頭の中で反芻する。


2/16
公園を歩くと、まだ誰もいないのにぽつりと一人だけ気が早く舞い上がって咲いてしまったような一輪の梅の花を見つけた。
春はもうすぐそこまで来ている。


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