ハンバーガーフィッシング(小説)

 仕事を少し早く切り上げ、夕暮れ前に病院に着いた。駐車場から病棟を見上げると、ある一室の窓から何か細い紐が垂れ下がり、ヒラヒラと風になびいていた。
「あの部屋は……美由紀の部屋?」

 娘の美由紀が入院生活を送るようになって、もうすぐ一年になる。体が衰弱する難病だった。完治することは難しく、容体が安定するまでは退院できないという。

 妻の由紀は、丸一日に及ぶ難産の末、美由紀を産んですぐに息を引き取った。私は娘を授かって、妻を失ったのだ。その日は一日中泣いた。泣きすぎて、なぜ自分が泣いているのか分からなくなるほどだった。その翌日、改めて娘を見た時、スヤスヤと眠っている姿が本当に神々しく、そして愛おしいと思った。この我が子を守るために、私はこれからの生涯、もう二度と泣くまいと誓った。

 一緒に住む私の両親と、さらに由紀の両親の助けもあり、美由紀はすくすくと育った。大きくなるにつれ、美由紀は由紀に似てきた。艶々とした黒髪に透き通るような白い肌。そして大きな両の瞳。親バカと言われればそれまでだが、行く末が心配になるくらい、美由紀は美しく育った。
 しかし昨年、美由紀が高校一年生になったばかりの頃だった。なんとなく近頃痩せたように思っていた矢先、突然学校で倒れ、そのまま病院へ運び込まれた。以来、ずっと入院している。

 コンコンと病室のドアをノックすると、抑揚のない声で「ドーゾ」と聞こえた。病気になる前の美由紀の声は、草原を飛ぶセキレイのように、リズミカルに弾んでいた。そう、まるで歌でもうたっているかのような話声だった。それが、入院が長引くに従って、元気のない声になっていった。
そっとドアを開ける。
「美由紀、調子はどうだ?」
「……まあまあ」
「お土産持ってきたぞ。ほら、組み立てると猫になるんだってさ、このブロック」
「……ありがとう」
 いつもここで会話が途切れてしまうが、今日はもう一つ話題がある。私は窓に近づいた。やっぱりだ。細い紐は、この部屋から出ていた。紐の端は、カーテンの房掛けに括られていた。
「美由紀、この紐、美由紀が垂らしたのか?」
「……」
「何かのおまじないかな? ハハハ」
 美由紀の祖母、つまり私の母が言うには、美由紀は祖母の前では、わりと話をするらしい。私も、毎日お見舞いに来ていたら、もう少し関係性は変わっていただろうか?
 返事を待つともなく窓の外になびく紐を見つめていると、「釣り」と聞こえてきた。慌てて美由紀の方を向いた。
「釣り、してるの」
「つり? つりってフィッシングの、釣り?」
「ハンバーガー釣れないかなって」
「ハンバーガーって、ハハハ、こんな窓から、ハハハ、面白いな、美由紀は……」
 美由紀が急にこちらを向いて、声を震わせながら言った。
「ハンバーガー食べたいって、おかしいこと?」
大きな瞳からは涙が零れていた。
「美由紀……」
「もう、一年間も味のない食事と、サプリだけなんだよ。ハンバーガーくらい、食べ、たい、よ」
 美由紀は下を向いて、声をあげて泣き出した。私はそっと肩に手をかけたが、すぐに払われてしまった。私は、娘がこんなに苦しんでいるのを、ただ見ているだけしかできないのか。
 私も、こうやって大泣きしたことがある。美由紀が生まれる二年前、妊娠二カ月目で由紀が流産してしまった時だ。あの時は、二人で泣いた。抱きしめ合って二人で泣いた。毎晩、毎晩、抱きしめ合って二人で泣いた。
 ハッとした。美由紀は今、一人で泣いている。私は何をボーっとしているんだ?
 泣いている美由紀の手を握った。振り払われそうになったが、私は強く握り続けた。美由紀はしばらく抵抗していたが、やがて諦め、私の手におでこをつけて泣き続けた。私も、一緒に泣いた。禁忌を破って、一緒に泣いた。

 ゴロゴロゴロとワゴンの音がしてドアが開いた。急いで涙を拭う。
「美由紀さーん、夕ご飯ですよー。あら、お父さんもご一緒。……どうしたの? 二人して目が真っ赤よ」
 気のせいか、美由紀は涙を拭いながらも、少し微笑んでいるようだった。美由紀と目が合った。
「お父さん、何ニヤニヤしてんの? 気持ち悪い」
 いけない。笑っていたのは私の方だった。しかし、嬉しかった。美由紀と、ほんの少しかもしれないが、気持ちが通じ合ったように感じた。
 食事のプレートを見ると、柔らかそうなご飯と、色の薄い筑前煮、温やっこ、お味噌汁、そして、数種類のサプリ。女子とはいえ、育ち盛りの子には物足りないだろう。再び、悲しくなる。
「お父さん」
 美由紀の声に、我に返る。
「食べるところ見なくていいよ」
「あ、ああ、そうだな。じゃあ、そろそろ帰るな。日曜にまた来るから」
 いそいそと帰り支度をして出て行こうとすると、再び「お父さん」と呼び止められた。振り向くと、美由紀は少しだけ微笑んでこう言った。
「ありがと」
 別れを告げて扉を閉めた後、私は再び泣いた。嬉しくて。

 日曜日、私はお昼前に病院へやって来た。今日も細い紐がなびいている。私は足早に美由紀の病室へと向かった。
 ノックをして入ると、今までの美由紀とは明らかに態度が違っていた。どことなくソワソワしている。
「おっ、猫、できあがったな」
 枕もとに、ブロックの猫がいた。
「うん、おじいちゃんとおばあちゃんも手伝ってくれたんだよ。かわいいね、この子」
 会話をしてくれている。私は嬉しさを押し殺して窓辺に来た。
「おっ、今日も釣りか? ハンバーガー釣れるといいなあ」
 窓を開け、紐を手繰り寄せる。美由紀に見つからないよう後ろ手に持ってきた紙袋を高々と掲げた。
「美由紀! 何か釣れてるぞ! ホラ!」
「え? なに? なにそれ?」
 丸い目をさらに見開いて驚く美由紀に紙袋を渡した。美由紀が紙袋を開けると、香ばしい匂いが室内に漂った。
「お父さん、これ、ハンバーガー」
「ホントに釣れたな」
「ええー! でも、食べれないのに」
「あのな、先生に相談したんだよ。なんとかハンバーガーを食べさせたいって。そしたら、大豆で作った疑似肉があるんだけど、それならいいって言うから、お父さん、作ってきたんだぞ。薄味なのは勘弁な」
 美由紀の体が小刻みに震えているのが分かった。
「ホラ、後ろ向いてるから、食べてみろ。ああ、よく噛むんだぞ」
 私が後ろを向こうとすると、美由紀がシャツの裾を引っ張った。
「後ろ、向かなくていい」
 そう言って、美由紀はハンバーガーを一口頬張った。何度か噛んでゴクリと飲み込むと、下を向いて泣き出した。「おいしい、おいしい」と言って泣き出した。
 嫌がられるかなと思いながら、私は美由紀の頭を撫でた。すると、さらに泣き声が大きくなった。まるで小さい頃の美由紀に戻ったかのようだった。愛おしくて愛おしくて、私は何度も美由紀の頭を撫でた。
 美由紀はよほど嬉しかったのか、食べている間に何度も泣いた。そのせいで、全部食べ終えるのに一時間近くかかってしまった。

 この日は面会時間ギリギリまで美由紀と話をした。美由紀の好きな芸能人やスポーツ選手、そして将来の夢。初めて聞く事ばかりだった。私は、由紀の話をした。由紀の好きだった音楽や映画の事。結婚前はよく二人でお笑いのライブに行っていた事など。美由紀は目を輝かせて、身を乗り出して話を聞いてくれた。
 思えば今まで、美由紀がおばあちゃん子だった事もあり、あまり二人で話をする機会はなかった。今回、二人でいっぱい泣いて、いっぱい話をして、初めて親子になれたような気がした。
美由紀を挟んで由紀と私、三人の親子に。

 数日後、予め伝えておいた日に病院を訪れた。
駐車場から病棟を見上げて、私は吹き出してしまった。美由紀の部屋から、数えきれないくらいの紐が垂らされ、ヒラヒラと風になびいていたのだ。
 あの紐の先につけるものを空想しながら、私は病室へと向かった。

                   終

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