見出し画像

英語がとてつもなく苦手で、だからこその向き合う意味

英語が苦手だ。英語から逃げたい。なんで英語論文で出さないといけんのだ。全部誰かに任せてしまいたい。。。

中1からずっと英語の苦手意識があり、なんなら小学生の頃の時々あるALTの授業もあまり楽しめてたか覚えてない。
それでも研究したいなら、もっと深く広い世界を見たいなら英語は避けて通れない。だから自分なりに英語に触れようとし、英語論文の和訳は必死になってやってきた。ところが自分で英訳して論文を書くとなって、ポッキリ折れてしまった。

2020年3月にDeepLが日英翻訳に対応し、「へーそんなもんも出てくるようになったんや」と感じた。実際にそれを使用し始めたのは先月に入ってからである(ザ先延ばし)。使用感は素晴らしいとしか言えない。こいつはつええ...!となった。

さて、DeepLの力を借りながら英訳を頑張っていると、英語にする意味もあるなーと感じざるを得ない。英語嫌いの自分にとっては認めたくないが認めざるを得ない。

それは日本語(ネイティブ言語)で書くと論理の穴がどうしても出てくることだ。自分が研究してたことだから当然ちゃ当然だが日本語で書いていると「分かってしまう」。何回も何十回も確認したことだからその一歩は明らかに思えてしまう。もちろん相当に論理は詰めて書いたつもりだ。でも英訳した時、自身が苦手で読めないからこそ、詰めた論理にまだ隙があることに気づいてしまう。

あれ?てなるとまだ掘りようあるんちゃう?と、まだ掘り切れてねえぞと、まだ何か埋まってそうだぞ、という感覚が出てくる。まあこういう感覚ってまず間違いなく外れるんすけども()研究ってそんなもんだからorz
それに何か掘り出せてもそれに価値を感じるの俺だけで、何をそんなところに時間をかけてるのか?さっさと次進まんかいと他者は感じるかもしれない。まあ研究ってそんなもんだからorz(ここをうまくいい塩梅つけることも博士に求められることなんやろな、一旦距離置いて進んでみることで見えてくるものもやっぱりある。)

でもだからこその研究の面白さというか醍醐味っていうのもあるんだよな。非常に矛盾迷走した気持ちであるが。面白いからやってるのかただの執着なのかもはや見分けがつかない。それでも「やるからには『分かりたい』、いや『分かってみせる!』」という気持ちが強くある。

そんなことを英論執筆しながら感じた。
何が言いたいかというとDeepLありがとう!

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?