見出し画像

アンコール

 山積みにされたビールの空き瓶のせいで、床下収納の扉が閉まらなくなってから二年が経った。葉子は黒いエナメルのフラットシューズを履いて、玄関の扉を開けた。

 海だ。いつもと変わらない穏やかな海。五月の日差しを反射して、海面が光っている。波音は、いつまでも鳴り止まないスタンディングオベーションみたいだ。

「光も波も、うるさい」
葉子は、アパートの階段を一段一段蹴っ飛ばしながら降りる。駅に着くまで、自分の黒い靴しか目に入れなかった。

 三浦海岸駅の改札前で待っていると、サングラスをかけた美樹が小走りで来た。
「葉子! 受賞おめでとう!」
 そう言いながらサングラスを外す美樹は、葉子に小さな花束を差し出している。
「やだなぁ。もう二年も前の話だよ? 美樹だって、バレエの主役おめでとう!」
 そう言うと、葉子はサッと片足を引いてひざまずき、頭を垂れながら「美しいオーロラ姫よりブーケを賜りますこと、この上ない光栄でございます」と言った。
 大笑いしている美樹から花束を受け取ると、ホットミルクに浸したビスコッティからハチミツの溶け出るようなあたたかさが、葉子の胸に広がった。

 美樹は、復活の鳳凰だ。大怪我をして、異国の地で不安と絶望と戦いながら、希望をにらみ続けて舞台に這い上がった。
「美樹さん! 舞台復帰のみならず、初めての主役抜擢! 本当におめでとうございます。大躍進の鍵はどこにありましたか? スランプに陥っている新人小説家に真言を!」
 花束をマイク代わりにして、葉子が尋ねる。

 美樹は、曇り始めた空を見上げて「無じゃなきゃ勝てない」と呟いた。
「どんなに技術を磨いても、心を磨かないと、誰の心も動かせない。我も欲も超えて、無にならなきゃ、何も生まれない。無心で書きなさいな。嵐に揉まれて心を鍛えなさいな。君の宇宙はもっと広いぞ! 新人作家さん!」と言うと、美樹は人差し指で葉子の鼻をつついた。

 迷惑そうに美樹の指を払う葉子に、「次の締切日はいつなの?」と美樹が聞いた。葉子は『三浦海岸駅』と書かれた看板を見上げて、「原稿を渡したのに、編集者から、半年返事がない」と白状した。電車のブレーキ音が響く。リクルートスーツを着た若者が、改札を走り抜けていった。

「慰めないわよ?」と美樹。
「わかってるよ!」と葉子。
「ねぇ、美樹。アルバイトしない? 作家の飲み散らかしたビール瓶を酒屋に運ぶ仕事。報酬は、生ビールの大ジョッキ!」
 葉子は美樹の返事を待たずに、横断歩道の青信号目指して走り出す。波の音が、アンコールの拍手のように鳴り響いていた。