シャーベットの魔法
「美里さん、先日はうちの人に高価なプレゼントをありがとうございました」おでん屋のカウンターで、彼女に声をかけられた。
宣戦布告か? やめて欲しい。私は彼を奪う気なんて、さらさらない。みんなが帰ったときに、私も一緒に帰ればよかった。「デザートくらい食べていけば。ここの梅酒シャーベットは最高においしいですよ」私が梅酒好きなことを知っている彼がそう言ったから……。
「いえ。とんでもないです」そう言って、私は視線だけ彼女に送った。彼に似合う橙色の誕生日プレゼントを探していたら、たまたまエルメスのネクタイになっただけだ。
彼は、私と彼女の間に座っている。ほのかに口角を上げて、メガネの奥から手元のビールを眺める彼。西麻布の交差点でアイスクリーム片手に私が舐めた彼の唇は、結ばれたままだ。彼に彼女がいることは、知っていた。
「いつもお世話になっていますので」私は梅酒のシャーベットに向かってつぶやいた。シャーベットの器の冷たさを左手に、漆塗りスプーンの温もりを右手に感じながら、スプーンを運ぶたびに、ほんわり優しい梅の香りを確かめた。彼越しに見る彼女は、なんだか大きく見える。何もかも許してくれるような柔らかに熟れた梅の香りだけが、私の味方だ。
彼女がカウンターの向こうに向かって「マスター! レモンサワーのおかわり頂戴」と叫んでから、「私今日は帰らないからね。飲みたいの。帰らないの」と彼の顔をのぞきこんだ。「おいおい。やめてくださいよ、ユリさん。こないだ買ってきたワインのボトルがうちにあるじゃない。飲みたいなら帰って飲めばいいでしょう」笑いながら彼がなじる。私は彼を横目で見ながら、「仲良しですね」と言ってみた。
彼女は、彼の首にスッと自分の腕を巻きつけて「そうよ」と、真っ直ぐ私を見つめる。私はシャーベットにスプーンを入れながら、「私も年下の彼氏がいるので、すごくわかります」と笑顔で見つめ返した。
「美里さんの彼氏ってどんな人なの?」彼の首にからめた腕を少しゆるませて、彼女が聞いた。
「すごく優しい人です」
「あなたの帰り、待ってるんでしょ。早く帰らなきゃね」
「ユリさんは、待ってる人がいないんですか」私が言うと、彼女は黙った。彼が彼女の腕をそっとほどいて、「帰ろう、ユリさん」と声をかける。シャーベットはもうあと一口しかない。
「結婚してよ」彼女が言った。
「もしもし、久我さん。プロポーズされてますよ」私はスプーンに乗せた梅酒シャーベットを口に入れながら、彼に言った。シャーベットは薄い黄金色の液体になって、小さくて透明なガラスの底にへばりついている。
「マスター、ごちそうさまでした。すっごくおいしかったです。デザートを食べるためだけに、帰る時間を遅らせて良かったです」カウンターの奥にいるマスターに向かって、腹から声を出して伝えた。
「美里さん、駅まで送ろう」彼が立ち上がった。私は紙ナフキンでそっと唇をぬぐってバッグをつかみ、「お先に失礼します」と彼女の背中に一礼する。
「いつ帰ってくるの」壁面に並んだ値段の書いていないおでんメニューを見上げながら、彼女が言った。
「すぐ戻るよ。駅まで行くだけだから」私と彼が並んで店の扉を開ける。
彼女がもう一度、「何してくるの」と聞いた。
彼がふり返って彼女に何か言う前に、私は外へ出た。音もなく閉まる扉をそのままにして、彼が出てこないことを背中で確かめた。私は暗がりに足を一歩、踏み出した。
歩くと満腹感が増す。おなかはいっぱいでも、どこかで何かを食べていきたかった。いつもだったら、久我に連絡するところだけれど今は逆効果だ。
さっきのシチュエーションは、修羅場だったのかもしれない。スマホを取り出して、ブログの編集画面を出した。画面の明るさに目がやられそうだ。タイトル欄に「修羅場」と書きこんだ。
「『先日はうちの人に高価なプレゼントをありがとうございました』おでん屋のカウンターで、彼女に声をかけられた。宣戦布告か? やめて欲しい」それだけ書いて、投稿した。
十年前に会ったおじさんに、「美里ちゃんは文章を書くといいと思うよ。うまいから。うまい人ってね、『楽しい』って気持ちを『楽しい』という言葉を使わずに書けるんだ」と言われたことを思い出した。スマホを改札にかざす。ゲートが開く。「続き、書いてみよう」上りエスカレーターに乗って、私はブログのタイトルを書いた。
『シャーベットの魔法』。