オシャレの意味

私は異性と付き合ったことがない。
小学生のときは中学生に自分に期待を託し,中学生のときは高校生の自分に期待を託し,高校生の時は大学生の自分に期待を託してきた。

大学生である現在も社会人の自分に期待を託したいところではあるが,これまでの自分の生き方や考え方を鑑みると,来世に期待を託したいところである。

さて,人生の充実度は
①人に愛されたかどうか
②社会にどれほど貢献できたか
この2つの要素から成り立っているのではないかと個人的に思う。

人それぞれ価値観は違うから,①:②=7 : 3の人もいれば,3 : 7の人もいるだろう。

「人に愛されたかどうか」という要素は「家族に愛されたか」,「他人に愛されたか」の2つの要素に分類される。
「社会への貢献」もそれ自体と,「人類単位での貢献」の2つの要素に分類される。

私は最近,自分が他人に愛されないのではないか,つまり生涯独身を貫くことになるのではないかと危惧している。

性格が暗いのである。

自らの内なる声ばかりに耳を傾け続けてきた結果,肉体に宿る適応機能の神秘によって耳が内巻きにならんとするのを感じる。

愛されたいが,愛されるにはその前に付き合うというステップが必要で,付き合うには好意を寄せてもらう必要がある。好意を寄せてもらうには外見に気を遣うことが不可欠であるように思われる。つまり「オシャレ」である。

本題に入る。
友人に異性と仲睦まじくなるため,ひいては愛されるためには何が必要だと思うか聞くと,大概「オシャレであること」と返ってくる。

しかしオシャレをして仲睦まじくなったところで「好意」が「愛」へと変化する段階まで行くには結局人間としての中身が必要なのである。

私には長く続けていけるほどの中身をもっている自信がない,オシャレをしたその先のビジョンがイメージできないために,オシャレなど虚飾に過ぎず意味のないものであると思ってしまうのである。

オシャレは重要とは言うものの,私のようなオシャレを楽しめない人間の場合,オシャレをした私は本来の私ではなく,であれば私ではない他の人でも良いのでないだろうかと思ってしまう。

仲睦まじく,毛穴の観察に余念がないカップルたちの多くは相手の虚飾を見抜いた上で付き合っているのだろうか。

同じ服を着て同じ髪型にして画一化させたときに選ばれるような,そんな人間に私はなりたいと思う。

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ここまで色々書いたが結局書きたかったことは,不甲斐ない自身の正当化であり,嫉妬であり,将来に対するぼんやりとした不安である。

noteを始めた目的として「考え事の整理」と前の記事で書いたが,整理されているとは言い難い書き殴りのような文章だと感じる。文章の構成を改善していく必要がある。もう少しユーモラスを交えた文章にも挑戦していきたい。

それから文体は堅い方がいいのか柔らかい方がいいのか迷っているので次は柔らかい文体で書いてみようと思います。

ここまで読んでくれた方,ありがとうございました。

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