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寂しい目の色

 僕は結構長いこと裏千家茶道をやっている。
高校二年の選択授業で学校茶道に出会い、卒業してからも縁は完全に途切れることはなく、社会人になって見つけた先生のところにもう十年通っている。
 否、通っていた。

 先生は、僕が弟子入りした頃確か七十代前半だったと記憶している。ピシッとしていて厳しく言うこともあるけれど、ユーモアも優しさもある、本当に良い先生だった。
 あまりお茶会を好まず、お茶事が好きで年に二回は必ずお稽古茶事をやるのだが、ご自宅であることも手伝ってか懐石から何から全てご自分で作られてしまうのだから、本当に驚いたものだ。
 階段を登れば弟子の誰より速く、夏の盛りでも研究会やゼミに足を運び、耳が元々遠い以外は悪いところもなく(実は糖尿だった、というのは最近知った)本当にお元気で皆心底感心していた。
 ご本人も、大宗匠(先代のお家元。昨年二〇二三年で百寿を迎えられた)のように百歳まで現役を貫くと、ことある毎に話されていた。話しながら、よくVサインをする方だった。

 そんな先生の様子がなんとなくおかしいと感じ始めたのは、恐らくコロナでの長い稽古休みが開けてからではなかったか。三年前のことをつい最近のことのように話したり、もう五年以上お稽古に来ていない兄弟子のお子さんの話を、繰り返しするようになった。
 僕は休みの全然無い仕事をしていた時期が何年もあり、その時期は他の弟子と同じように決まった曜日に稽古に通うことは出来なかった。それでも先生の「いつでも貴方の都合に合わせて、とりあえず声を掛けてみてちょうだい」とのお言葉に甘えて、月に一回、二ヶ月に一回、とぽつりぽつり通っていた。
 それだから、コロナで暫く稽古はお休みです、と連絡があった時は正直ホッとした。高齢の先生に流行り病を移すことは勿論、そもそものスケジュールを心配しなくて良くなったからだ。どれくらいの間お休みがあったかは、正直なところ覚えていない。お稽古が再開されてからも僕は以前と変わらず、ぬるりとした通い方を続けていた。

 そんな中でも、どうやら様子が変だと感じ始めてから恐らく一年弱経った頃、僕は休みの無い仕事を辞めた。まともなサイクルの中で、また他の弟子と一緒に稽古に参加出来ることが増えた。人数がいれば出来ることも多くあり、充実していたし、嬉しかった。
 それでも徐々に徐々に、回を追う毎に先生の “この間の話” は増えていった。同じ話を数分置きにすることもあった。
 一度、これはキツいなぁと兄弟子が漏らしたことがあった。抹茶を切らすことが増えたのだ。先生は必ず缶に入った抹茶を準備しておいてくれるのだが、それが無い。いつも冷蔵庫に新品が幾つも入っているのに、どこかに置いてしまって見つからない。
 主菓子(練り切りや〇〇餅など、主のお菓子のこと)が無いことも多くなっていった。いつぞやの稽古中に、先生お菓子がありませんと言ったら「あぁ、忘れてたわごめんなさい」と取りに行って下さったのだが、戻ってくると手には新品のお茶の缶。それの外装ビニールを、僕を見つめながら剥がそうとするものだから慌てて止めた。先生、お菓子です、お茶はあるから大丈夫と言うと、笑って「あぁそうだった、お茶じゃなくてお菓子ね」と言って引っ込んで行く。戻ってくるとまた新品の抹茶の缶を持っている。それを五、六回繰り返したところで僕が「先生、お菓子はこれにしましょう」と適当に近くにあった干菓子を手に取り、漸く稽古に戻ったこともあった。
 それからとうとう、弟子の知らないところで先生のお世話になっている先生とお弟子さん達が持たれるお席の手伝いを我々がする、という話をしていたことが、そのお茶会の前日に分かったことがあった。勿論弟子一同は大慌て、なんとか上の弟子二人がちょうど参加できるということで収まった。その際に、兄弟子が僕に電話を掛けてきて話をした。二人だけで話すということは初めてで、顔は見えないのに少し緊張した。
 今までは自分達だけのことだからと思っていたが、今回のことでハッキリと他の方々に迷惑を掛けてしまったこと。また、これで先生がどういう状態にあるかを、先方にも悟られたであろうということ。「先生には悪いけど、これからの自分達のお茶人生を考えたら、そろそろちゃんとお話しないとね」と兄弟子が唸るように言った。二人の間に暫し沈黙が落ちた。僕が「でも、ご自分ではまだまだ元気で……と思ってらっしゃるのに……と思うと、辛いですね」と言うと、兄弟子が「いや、先生はわかってるよ。あれだけしっかりしてた方だもの、自分の灯りが点いたり消えたりしてるのは感じてると思うよ」と言ったので、そうですか、としか答えられなかった。まだ寒い時期に外で話していて、寂しいね、という言葉が冷たい耳たぶに染みた。
 僕の頭には、前回の稽古終わりに「まだまだ百歳まで頑張りますから、皆さんに盛り立てていただかないと」と笑っていた先生が浮かんでいた。

 昨年の下半期になると、いつものお稽古日に伺ってもご自宅の鍵が閉まっていたり、先生が身支度をされていないことが多くなっていった。この日も起き抜けの状態で、最近どうも身体がだるくて、と仰る先生に僕は、いまは無理をしないで休んでください、いつまでも元気でいてくださいと言っていた。それが昨年の十二月だった。結局姉弟子と共に稽古をしたけれど、先生はとうとう寝起きのボサボサ髪のままだった。
 そしてそれが、僕が茶室で見た先生の、先生としての最後の姿だった。

 脳内出血で倒れ入院されている先生のところに、弟子みんなでお見舞いに行った。それは、お見舞いという名目の挨拶だった。みんなまとめて移ることができる、次の先生が決まったという報告だった。
 もうご家族のことも分からないと聞いていたから、何の期待もせずに行った。ただ、元気であって欲しいと思いながらベッドを覗いた。
 先生は横になったままこちらを見て、兄弟子が「先生、お加減いかがですか」と大きめに声を掛けると、少し笑いながらうんうんと頷きVサインをした。あぁ、先生だ、と思った。
 けれどそれ以降は、代わる代わる感謝を述べる弟子達を不思議そうにまぁるい目で見つめ、眠そうにしていた。恐らく、兄弟子と僕の低い声はよく聞こえていなかったのではないかと思う。女性陣のよく通る声は聞こえたのか、僅かだがリアクションがあったように思う。
 僕は、ひとに可愛いだの格好良いだのと言うのは全く恥ずかしくないのだが、感謝を述べるとなるとこれが物凄く難しい。他人がいると尚更だ。皆が「ありがとうございました」と言う中、僕だけが言わなかったような気がする。その代わり「また来ます」と言った。
 病院を出た後は、初めて皆でご飯を食べた。
 次に揃うのは多分、新しい稽古先でだろう。

 実は先生のことで、他の弟子には話さなかったことがある。それは、目だ。
 先生は、ぼーっとしている時は決まってグレーの目をしていた。それはまるでガラス玉をはめ込んだようにキラキラ見えて、人形の瞳を彷彿とさせた。僕を見ているのに焦点が合っていないような、どろんとした重い目だった。
 しっかりしている時は黒い目をしていた。元気な、今までと変わらない目。
 これは数十分ごとに入れ替わり立ち替わり、時には先述の主菓子が出てこない事件のように、数分ごとに替わることもあった。
 グレーの目のことはどうせ話しても信用されないと思っているし、自分自身でもそんなことがあるわけはないと思っている。思っているけれど、もしかしたら他にもそう感じる人がいるかもしれない。他にも、あの白っぽいグレーを見る人がいるかもしれない。
 悪いことではない。忘れてしまうのは仕方の無いことだし、誰のせいでもない。
 ただ、できることならもう一度、あの黒い目に見つめられたい。そして、先生が全然お茶会の裏仕事を教えてくれなかったお陰で今苦労していると、笑いながら文句を言ってやりたい。
 そんなことを、今日も考えている。





240404.
覚川 秀

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