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内観独習法 その3

Step6 誰もが自分の為に生きて良い

ある程度まで自我が確立してくると、心の底から「自分は他人の為に生きている訳じゃない」と思うようになります。問題なのは、そこで「自分の為に他人を利用し、踏み躙る」という愚かな選択をする者が現れる事です。

そのような選択をする人は、法律やモラルよりも野生の掟を優先する「力の信奉者」です。生き方の選択は深層意識が絡んでくる問題なので、赤の他人がその選択についてとやかく言っても、どうにもなりません。

個人的には「力の信奉者」は全員敵だと思っていますが、その選択は尊重せざるを得ないと考えています。何故なら、彼らの選択を認めないと、私自身の「人としての高みを目指す」という選択も認められなくなるからです。


「力の信奉者」として生きるのも、「人としての高みを目指す」のも、選択肢としては等価であり、どちらが正しいという事はありません。何故なら、根底にあるのは「自分はどう在りたいか」という問題だからです。

どう考えても、悪党が迷惑千万な存在なのは事実です。しかし「ギャングスターとしてカッコよく生きていく」という選択を否定する事は、本人の意思を奪う事になるので許されません。

もちろん、犯罪者は逮捕されて然るべきですが、犯罪者には犯罪者として生きる自由があるのです。そして、その自由を認めるという事は、自分自身の選択の自由を許す事にもなるのです。


この世に本当に正しい事は無く、本当に間違っている事もありません。善悪正邪の絶対的な基準は存在せず、全ては見方を変えるだけで容易にひっくり返るものに過ぎません。

故に、社会常識やタブー(禁忌)に縛られない「自由な思考」だけが、人間にとって本当に大切なものになります。何故なら、束縛の所為で思考に偏りが出ると、絶対無という答えに手が届かなくなるからです。

内観独習法では、ある程度まで自我を確立した後に、己の精神を束縛する常識や禁忌の正体について考察していきます。束縛を解けば解くほど心は自由に近づいて楽になり、思考は深遠になっていきます。


内観を行う際の注意点は無数にありますが、要約して3つにまとめたものを「内観独習法の三原則」と呼んでいます。

・心の多様性、多面性を、極力正確に把握しようとする事。
・主観や既存の概念にとらわれず、自分自身を客観視する事。
・心の働きのどれか一つを、本心や正解だと考えたりしない事。



Step7 トラウマ掘り

結論から言うと、常識や禁忌の正体は、学習と教育です。殆どの人は幼い頃の「白紙の自分」に親が教え込み、人間社会に適応出来るよう「型に嵌められた経験」が、常識や禁忌の「核」となっている筈です。

この「核」を除去するには、過去を振り返って「型に嵌められた経験」を克明に思い出す必要があります。その際、単に思い出すのではなく、まるでその瞬間に立ち会っているかのように想起、追体験をするのがコツです。

首尾よく過去を思い出したら、次に「何故、そのような教育を施したのか?」という理由について考えてみましょう。教育の当時は理由が分からなくても、人として成長した今なら分かる事も多い筈です。


教育の理由について考えて、十分に納得がいくならそれで良し、逆に完全否定、完全論破する事になるかも知れませんが、それもまた良しです。大切なのは、心に刺さった棘のような記憶を引き抜き、無力化する事だからです。

注意が必要なのは、虐待された過去を持つ人の場合です。

私自身、父親から事ある毎に「お前なんか要らない、出て行け!」と怒鳴られ、母親には「お父さんの言う事を聞いてあげなさい!」と叱られた過去があります。その辛い過去を想起、追体験する度に涙したものです。


父親は「内弁慶の外地蔵」を地で行く男で、仕事ではそこそこ成功しましたが、家の中では暴君でした。毎晩、大酒を飲んで暴れては、幼い私が自分に逆らえなくなるように理不尽な躾(しつけ)をしてきました。

母親は父親の情婦に過ぎず、気に入らない事があると拗ねて暴れる「自分の男」の機嫌を取る為に、幼い私に「必死の我慢」を強いてきました。

祖父は僧侶の身で戦争に参加した苦悩から酒乱になり、父親は何度も祖父に殺されかけたと聞いています。農家出身の母親は、日々を生きるだけで精一杯の祖父母に構ってもらえず、我慢しか知らない人になりました。


私の両親も恵まれない幼少期を過ごしたと知った時、この人達の教育を受け継いでしまったら、私も幸せになれないと確信しました。そして、私は私で白紙の状態に立ち返り、人生をやり直すべきだと思いました。

このようにして両親への愛憎を断ち切った時に、私の心に刺さった棘が抜けました。

もちろん、そう思い至るまでは心理的葛藤で苦しみましたし、その苦悩に耐えかねて何度も死のうとしました。私が過去を乗り越えられたのは、たまたま苦痛に耐える力が高かったのと、心底納得する答えを得るまでは死ねないと開き直れたからです。


楽になった後で当時を振り返ってみると、苦痛に耐える力と、答えを得るまでは死ねないという執念は、自我の確立と深い関係がある事が分かりました。

自我の確立については、社会学者の加藤諦三先生の著書を読み、その教えを吸収していたのが大きいです。もし先生の著書を読んでいなかったら、私は苦痛に耐えかねて自殺か発狂していたと思います。

しかし、私が加藤諦三先生の著書を手にする事が出来たのは、父親が著書を何冊も持っていたからなのです。でも、父親は先生の著書から何も学べず、「こんなの読んでも何にもならん」と言っていました。


この違いは「真実に向き合おうとする意欲」の違いであり、生き方とその選択の違いの所為だと思っています。

父親は「力の信奉者」であり、とっくの昔に「自分の為に他人を利用し、踏み躙る側に回る」という愚かな選択をしていたので、それとは真逆のベクトルである加藤先生の教えが心に届かなかったのです。

「力の信奉者」である父親は、社会的には成功しました。周囲から「ノンキャリアの星」と持て囃され、定年後に勲章まで貰いましたが、未だに心の中では無明の地獄を彷徨っています。でも、これも結局は本人が選択した事なのですから、尊重するより他はありません。


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