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「その男、ジョーカー」EPISODE1「卒業」#2

 肩をすくめて振り返ったワタシの腰の辺りに、髪を鳥の巣の如く乱した中年男性が、眉毛を八の字にしてすがりついて来た。濃い色のスーツを着ているが、その風貌ふうぼうからは何処となく貧乏臭びんぼうくさ雰囲気ふんいきが立ち上っていた。ワタシはジャケットをつかむ男性の手を振りほどきながらたずねた。
「アンタ、どちら様? 何でワタシが探偵だって知ってんの?」
 男性は離した両手をリノリウムの床に着いて土下座の様な姿勢を取りながら、妙にうるんだ目でワタシを見上げて答えた。
「それは、さっき貴方にババ抜きで勝ったが『探偵さん』って言ってたので、あ、申し遅れました、私はこう言う者です」
 男性は思い出した様にジャケットのすそのポケットから名刺入れを抜き出し、中から名刺を一枚取ってワタシの方へ丁寧に差し出した。見ると、名前は藤村貴之ふじむらたかゆき、『株式会社鈴井すずいプロダクション』の営業課に所属しているらしい。ワタシは頷いて名刺をパンツのポケットにじ込むと、腕時計に目を落とした。もう夜中の一時近くを指していたので、軽く咳払せきばらいを入れてから藤村に告げた。
「あの、今はもう時間も遅いし、ここじゃ店に迷惑だから、明日事務所に来てくれる?」
 ワタシがジャケットの胸ポケットから名刺を出して示すと、藤村は素早くひったくって立ち上がり、居住まいを正して深々と頭を下げた。
「と、突然失礼致しました。では明日、改めておうかがい致します。では、失礼します」
 恐縮きょうしゅくしつつ立ち去ろうとする藤村を、客席の掃除をしていた店員が呼び止めた。
「あ、お客さん! これあなたのじゃありませんか?」
 店員が示したのは、白い携帯電話だった。藤村は困惑した様に一瞬動きを止めたが、すぐに頭を下げて礼をべ、携帯電話を受け取って店を後にした。ワタシは藤村が居なくなったのを確認してから、何事も無かった様に店を出ようとしたが、背後から店長に肩を叩かれ、伝票を突きつけられた。
「ジョーさん、お勘定かんじょう
 振り向いたワタシは精一杯せいいっぱい愛想笑あいそわらいを作ったが、店長は柔和にゅうわな顔で首を横に振った。

 翌日、『JOE探偵事務所』の中にこしらえたプライベートスペース、と言っても事務所の三分の一を高めのパーテーションで仕切り、その内側にパイプ式ベッドを置いただけだが、そのベッドで昨日の服装のまま惰眠だみんむさぼっていると、玄関の扉をノックする音がひびいた。昨夜の酒が少し残っているのか若干じゃっかんの頭痛を覚えたワタシは、起き上がるのも億劫おっくうだったので無視して寝返りを打った。その拍子に顔に乗せていた中折れ帽が床へ落ち、き出しになった顔に陽光が容赦ようしゃ無く照りつけた。思わず顔をしかめたワタシの耳に、執拗しつようなノック音がおそいかかった。余りのしつこさに辟易へきえきしたワタシは、仕方なく重い身体を起こし、ベッドの下に脱ぎ散らかしたブーツに足を押し込んでプライベートスペースを出た。
 パーテーションのすぐ前にスティールのデスクが置かれ、その上に大枚たいまいをはたいて購入した、電話もファックスも、コピーもできる複合機が鎮座している。デスクの前に応接セットがあり、中央のガラステーブルの上に吸いがら満載まんさいしたクリスタルの灰皿が置いてある。吸い殻のほとんどはワタシが吸った物だが。
 応接セットの向こうに書類戸棚と観音開《かんのんびら》きの扉が付いた食器棚が並び、その上にサイフォン式のコーヒーメーカーとミルを置いてある。コーヒーメーカーを見た瞬間、コーヒーをれたい衝動しょうどうられたが、相変わらず続くノック音がワタシを現実に引き戻した。
 のろい足取りで玄関に向かいながら腕時計を見ると、まだ午前十時過ぎだった。
「何だよこんな朝っぱらから」
 ワタシは悪態を吐きながらやっと玄関に辿たどり着き、はげしくノックされる扉の向こう側へ怒鳴どなりつけた。
「今何時だと思ってんだ!? ワタシゃ日曜日と午前中は仕事しないんだ!」
 直後にノックはんだが、代わりに男性の声が聞こえた。
「あの、昨日は失礼しました、藤村ですけど」
「昨日? 藤村?」
 訳が判らずに口走ったワタシの脳が、必死に昨日の記憶を呼び起こした。数秒後、ようやくワタシは昨夜の『HONEY FLASH』でのやり取りを思い出して大きく頷いた。
 ワタシは扉の施錠せじょうを解いて藤村を迎え入れ、応接セットへうながした。恐縮しつつソファに腰を下ろした藤村は、胸の前に抱えていたトートバッグを傍らに置き、溜息を吐いた。昨夜鳥の巣状態だった髪の毛は、緩い七三に分けられている。ワタシは玄関の後ろにある給湯室きゅうとうしつに入ると、流しの下の物置からヤカンを取り出して水を入れ、流しの左側を占拠せんきょするふた口コンロの片側に乗せて火にかけ、給湯室を出た。
「アンタ、コーヒー飲む?」
 ワタシが藤村が座るソファの後ろを通りながらくと、藤村は二、三度頭を下げて「お構いなく」と辞退した。だからと言って客人に何も出さないのは流石さすがに気が引けるので、ワタシは物入れの前にしゃがんで観音開きの扉を開け、中からコーヒーカップを二客とコーヒーの粉が入った袋をひとつ取り出した。この粉はワタシが独自にブレンドした物で、自慢じゃないが評判は上々だ。コーヒーメーカーを組み立てて準備していると、給湯室から甲高かんだかい音が飛んで来た。湯が沸いたらしい。ワタシは小走りに給湯室へ入り、湯気を立てるヤカンを持って戻り、コーヒーを淹れた。
 ワタシは製造中のコーヒーを見ながら、着っ放しのジャケットの内ポケットから煙草たばこを取り出し、コーヒーメーカーの下で仕事中のアルコールランプに火を借りて吸い、ゆっくりと藤村の対面たいめんに着席した。
「お待たせしました。改めて、探偵の青天目譲です」
 ワタシが自己紹介すると、藤村は自分のジャケットのポケットからワタシの名刺を取り出し、納得した様に頷いた。
「ああ、これ『なばため』って読むんですか、はぁ〜、珍しいですね」
 生まれてから今までに何千回と聞いた台詞せりふにウンザリしつつ、ワタシは言葉を続けた。
「まぁ、言い辛いでしょうからジョーで結構けっこう、それで、今回はどんな御用件で?」
 それまでまじまじとワタシの名刺を見つめていた藤村が、慌てて顔を上げて切り出した。
「あの、ウチのモモを探してください!」
「モモ?」
 
《続く》

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