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鳳凰落とし #17

 狙い通り、こちらへ近づく足音のピッチが早くなった。嶋野は戸口にしゃがみ込んで息を潜めた。やがて、引き戸の施錠を解く金属音が聞こえた。嶋野は口に咥えていたナイフを右手で取り、順手でしっかりと握り直した。
 数秒後、引き戸が耳障りな音を立てて軋み、ゆっくりと横にスライドした。生じた隙間から突き出されたのは、大ぶりの懐中電灯だった。その後ろにある手首にナイフの柄を振り下ろしたい衝動を堪えつつ、嶋野は尚も待った。やがて、引き戸が更に開かれ、微かな光と共に人のシルエットが侵入して来た。円形の帽子を被り、灰色の制服を身に纏った中年の警備員が、恐る恐る足を踏み出して呼ばわった。
「誰か居るのか?」
 どうやらこの警備員は、嶋野がここに監禁されている事を知らされていないらしい。よく見ると懐中電灯が僅かに震動していた。嶋野はナイフを持った右手を耳の横辺りまで上げながら、警備員が入って来るのを待った。
 荒い息を吐きながら室内に入って来た警備員が、光線の指す先に散らばったロープを認めた。
「何だあれ?」
 独りごちた警備員が、更に中へ歩を進めて嶋野の横を通り過ぎた直後、素早く後ろを取った嶋野が左掌で警備員の口を塞ぎ、後頭部にナイフの柄尻を叩きつけた。
「うっ」
 掌で覆われた口から呻き声を漏らして、警備員は気を失った。嶋野は脱力した警備員の身体を静かに床へ横たえると、再びナイフを口に咥えて引き戸へ目を転じた。どうやら他に人は来ていない様だった。素早く警備員の足元に取り付くと、履いている靴を脱がせて自分の足を捩じ込んだ。サイズが合っていないのか少々きつかったが、贅沢は言えない。次に全てのポケットをまさぐって鍵束を奪うと、先程自分が吊るされていたロープに警備員の手首を縛って吊るし、制服の右袖を引きちぎって猿轡代わりに口に巻き付けた。
 足音を忍ばせて戸口に取り付き、嶋野はゆっくりと顔を戸外へ突き出した。非常灯のみで照らされた廊下は薄暗かったが、闇に慣れ切った嶋野の目には充分な明るさだった。
 静かに修練場から出た嶋野は、引き戸を閉めて施錠し、出入口へ向かった。広く取られた三和土に降り、ガラスが嵌め込まれた扉の脇に身体を寄せて外の様子を窺うが、他の警備員が見回りをしている様子は見えない。嶋野は扉のノブを慎重に回して押し開け、ギリギリ出られる隙間を作って身体をこじ入れた。外へ出た途端、冷たい夜気が肌を刺したが、嶋野は構わず扉を閉め、適合する鍵を探して施錠した。
 犬走りは一メートル程コンクリート敷きだったが、その先は土が露出し、所々雑草が伸びていた。嶋野は以前の記憶を頼りに、建物沿いに裏側へ回った。生い茂る雑草が脚に触れて微かな音を立てたが意に介さずに進み、やがて本部の敷地を取り囲む外壁に辿り着いた。注意深く周辺を観察するが、監視カメラの類は見受けられなかった。
 嶋野は念の為に後ろを振り返って状況を確認してから、壁の上部に葺かれた瓦を見据えつつ膝を折り、全身をたわめた。数々の打撃を受けた身体が悲鳴を上げたが、奥歯を噛み締めて凌ぎ、思い切り垂直に跳び上がった。目一杯伸ばした両手の指が、辛うじて瓦の縁に掛かった。右手に力を込めながら左手をずらして瓦の上部に掛け直し、その状態から懸垂の要領で身体を壁の上に引き上げると、右脚を振り上げて瓦に引っ掛け、漸く全身を乗り上げた。ナイフの刃で口の端を切っていたが、嶋野は気にせずに壁の上でうつ伏せになったまま、壁の外を見下ろした。元々裏通りの上に深夜なので、人通りは一切無かった。鼻から大きく息を吐くと、嶋野は下半身を壁の外側へ出し、ゆっくり身体をずらして瓦の上部を両手で掴み、壁にぶら下がった。その姿勢から軽く身体を振って裏道へ飛び降りた。両脚が衝撃を支え切れずに膝から崩れ、壁につんのめった。咄嗟に壁に手を突いて堪え、身体を横に回転させて背中を壁に着けて座り込んだ。ナイフを口から取ると、深々と深呼吸してから身体を丸めて前傾させ、歯を食い縛って壁沿いに立ち上がった。時間を確認しようと左腕を上げた所で、漸く腕時計も外されていた事に気づいた。舌打ちしつつ着衣のポケットをまさぐると、いつ入れたのか覚えていないが一万円札が一枚だけ見つかった。嶋野はナイフをベルトに挟み、札の皺を伸ばしながらブラック足でその場を離れた。環七通りへ出た所でタクシーを拾い、ぶっきらぼうに行き先を告げてシートに凭れ、溜息を吐いた。

《続く》

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