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鳳凰落とし #2

 菅原は鳩の様に首を動かしながら煙草を吸うと、口の端から主流煙を漏らしつつ言った。
「今回はどうも、お堅い筋らしくて」
「場所は」
 嶋野が先を促す。
「あ、いつもの所に夜の十時ッス。最初向こうがリモートでとか訳判んねえ事ヌカシやがったらしいんすけど」
 菅原の悪態を無視して煙草をビール缶で消すと、嶋野は玄関へ顎をしゃくった。菅原は肩をすくめて煙草をもうひと吸いしてから缶に押し込み、踵を返しかけて「あ、そうだ」と口走ってズボンのポケットから何かを取り出した。一瞬身構えた嶋野の前に差し出されたのは、電源の入っていないスマートフォンだった。
「これ、新しいスマホッス」
 嶋野は無言で受け取ると、電源を入れずにズボンのポケットにしまった。正規のルートではなく、架空名義で入手した海外仕様のSIMを、SIMフリーの端末に搭載した所謂「飛ばし」のスマートフォンである。
「じゃ、失礼します」
 水飲み鳥の如く何度も頭を下げて、菅原は部屋を出て行った。嶋野は菅原の足音が聞こえなくなってから、玄関に施錠して再び畳の上に横たわった。

 嶋野が目を覚ますと、外は大分陽が傾いていた。時間を確認しようと左腕を上げ、腕時計を嵌め忘れている事に気づいた嶋野が、ジャケットのポケットをまさぐりかけてふと手を出し、窓際へ差し出して西陽に晒すと目を細めて指先を凝視した。
 それぞれの指紋を覆う様に、透明な薄い膜が貼られていた。その端が少しささくれてめくり上がっている。逆の指先も見るが、同様に剥がれかけていた。
 嶋野は舌打ちしつつ立ち上がり、押入れの襖を音を立てない様にゆっくり開けた。
 上下二層に分かれた押入れの上段に、様々な道具、雑貨類が置いてあった。嶋野はその中から接着剤の瓶を取り出し、壁際に座り込んで蓋を捻った。蓋の内側に細いプラスティックの棒が伸び、先端には刷毛が付いていた。嶋野は左の掌を上に向け、指紋を塗り潰す様に指先に接着剤を塗布した。左の指先が乾くのを待って右手の作業を行い、乾く間に時間を確認した。午後六時半を少し過ぎていた。約束の時間にはまだ間がある。嶋野は接着剤をしまって煙草に火を点けた。
 煙草を二本灰にした頃に接着剤が乾き、嶋野は少しだけカーテンを開けて窓ガラスにそっと右の人差し指を押し当てた。指を離した後に指紋が残らないのを確かめると、嶋野は押入れの下段に寝かせたキャリーバッグを開けた。中には輪ゴムで止めた一万円札が数束入っていた。その中からひと束掴み、輪ゴムを外してジャケットの内ポケットへ捩じ込むと、上段の奥からバケットハットを取って被り、玄関へ向かった。三和土でブーツに足を入れかけて、左足の方のサイドジッパーの裏側に指を入れて何かをつまみ上げた。出て来たのは薄い両刃のナイフだった。微かな光にかざして数秒眺め、元通りに収めてブーツを履くと、嶋野は部屋を後にした。

 自由が丘駅から徒歩十分程の距離にある雑居ビルの地下一階に入る『BAR DYLAN』に、嶋野が入って来た。
 出入口のすぐ前にレジが置かれ、その奥にカウンターが伸びている。右手に広がるフロアには、薄いパーテーションで仕切られたテーブル席が六つ設けられている。客はまばらで、カウンターの中では中年の男性バーテンダーが黙々とグラスを磨いていた。嶋野に気づいたバーテンダーが、目で店の奥へ促した。その先には、『VIP』と記されたプレートを貼った扉があった。軽く頷いた嶋野は真っ直ぐVIPルームへ進み、ノックもせずに扉を開けて中へ身体を滑り込ませた。
 五十平方メートル程の室内の中央に、黒革貼りのソファとガラスのテーブルが鎮座し、奥の壁には大型の液晶テレビが設置されている。出入口から見て左側にバーカウンターがあり、その後ろには様々な高級酒が並んでいる。カウンターにバーテンダーは居ない。右側にマントルピースが置かれているが、当然暖炉は無く、ただの飾りである。その上に額装された風景画が掛けてあるが、誰の絵かは知らなかった。
 マントルピースを背にする側のソファに背筋を伸ばして座っていた、スーツ姿の初老の男性が、嶋野を見るなり立ち上がって最敬礼した。嶋野は無視してカウンターの中からクリスタルの灰皿を取り出して、テーブルの真ん中に置いてから男性の対面に腰を下ろした。
「用件を」
 嶋野が促すと、男性は漸く表を上げてソファに座り、上目遣いに嶋野を見ながら切り出した。
「はじめまして。私、土橋と申します。名刺は勘弁して頂いて――」
「用件を」
 嶋野は強い口調で土橋の自己紹介を遮った。肩をすくめた土橋が、傍らに置いたアタッシュケースを開き、A4サイズの封筒を取り出して中身をテーブルの上に広げて告げた。
「鳳凰を、落としてください」
 嶋野の眼光が、土橋の皺面を射抜いた。

《続く》

 

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