2022・8・7サブカルという旅の始まり

個々人のサブカルを生活様式として認知しよう。
個々人に認知ほしいと私は思う。

サブカルチャーは一種の主義によって成り立つ。
どのような社会にいてもサブカルチャーは成り立つ。
少数の組織にいても個人として様式やルーティンを持つと
一種のサブカルチャーと言えそうな気がする。

サブがあると言ことはメインがある。

メインカルチャーはいわば主な文化である。

社会や組織において文化という名目で様式を作ることで
効率的になったり士気が上がったり
暇を消したり不幸や幸を分け合ったりできる。

文化という言葉は差別的である。

  1. 世の中が開けて生活水準が高まっている状態。文明開化。

  2. 人類の理想を実現して行く、精神の活動。技術を通して自然を人間の生活目的に役立てて行く過程で形作られた、生活様式およびそれに関する表現。

と訳されることがある。

このどこが差別的か。

「生活水準が高まっている状態」
ここや
「人間の生活目的に役立てて行く過程で形作られた、生活様式」
ここである。

人間は人間以外の生活水準を把握できない。

餌が豊富にあって子孫を大量に残せると生活水準が高いのか。

安心できれば生活水準が高いのか。

自分以外を自分の生のために利用できれば生活水準が高いのか。

モノには様々な繁栄の様式がある。
その様式はほとんどが組織によるものである。
自分だけで繁栄していくモノは数少ない。

さてサブカルチャーの話に戻ると
主な文化ではなく
あくまでサブ
ここには大衆文化や若者文化も入ってくるらしい。

イメージしている補欠的な意味や補助的な意味だけではない。
大衆は大多数である。
大多数のカルチャーはもはやメインカルチャーだろうと私は思うがそれだけではなさそうだ。

googleでは
「ある社会に一般的にみられる行動様式や価値観をその社会全体の文化と捉えたときに、その文化の内部にありながら、ある独自性を含む行動様式や価値観のこと」
と訳されているがこれを個人と組織の関係でも応用すれば
各々のサブカルチャーが発生すると思う。

一般は一般であっていいと思う。いわばメインカルチャーだ。
効率的になったり士気が上がったり
暇を消したり不幸や幸を分け合ったりできるのであれば
それは悪いとは言えない。

社会全体の内部にありながらある独自性を含む行動様式や価値観のこと
というのは
組織としての定義はなく
独自性を含む行動様式や価値観は個人だけでも成り立つ。
独自性を含む行動様式や価値観は誰にでも当てはまる。
つまり個々人は独自性のある行動様式や価値観を持っているはずだというのが私の主張である。

それを自身で認知するところからが
私の思う旅や生活の始まりである。

これは別に人に言う必要はない。
独自性をなくす可能性がある。

独自性を確保したまま
旅や生活を拡張していくべきだと考えている。

独自の社会システムを作り交易を繰り返すことで日々を大切にできる。

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