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存在、行動、道具、
私は道具に使われることに抵抗して生きてきた。
道具という存在に使われるのではなく使いこなせと常に自身へ言い聞かせた。
現代の様相は道具に使われている。
それが当たり前となっている。
当たり前であることほど危うさの影は薄くなる。
当たり前のことに抵抗感を持たないことは思考停止状態と言える。
ゴミ箱へゴミを捨てる。このゴミをゴミ箱へ捨てる行為はごくごく当たり前のことではあるが、ゴミを捨てる行為自体は別にゴミ箱なくしてもできる。道端に捨てれば良い。
また、タバコを吸うところは喫煙所でなくとも、タバコと火があればタバコは吸える。捨てるところは灰皿でなくとも、道端ないしはドブに捨てれば済む。
これらは極端な例え話である。
要するに自身の行う目的を達成するためには様々な存在同士の連関によって我々は自身の行動を規定されている。
人間という存在である以上は他の存在に気を取られていてはならない。
行動の意思決定は常に自分にあることを意識すると自由に生きることができる。
ただし、自由に生きた果てに待っている経験を私は保証しない。
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