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『イタリアのテリトーリオ戦略』を読む

近年、イタリアをテーマとした興味深い書籍の出版が続いている。そして私は、時折形式的ではあるものの地方行政に近い位置に入ることがある。
 
いわゆるブリッジ・エンジニア的観点から見ると、現在の都道府県庁等による課題解決型の地方創生シーンに対しては多様性ある豊かな地方の姿が全く見えていないといった印象を持つことが多い。正確には、見えていないわけではなく意図的に視界のなかに入れていない。それはシーンが「何らかの課題は常に地方側に存在する」、つまり地方の現状の姿を「解決すべき課題」と見做すことを起点とする構図を必要としているからだろう。それは言い知れぬほどに凡庸ではあるものの、しかし現状で完全な間違いとまでは言い切れない。
そして課題の発見と解決の反復は、結果としてよりEconomicalに、あるいはPoliticalに〈合理的〉な空間、〈合理的〉な方法、そして〈合理的〉な選択を現在も生産し続けている。他方、生産性向上へのアルゴリズム形成は「もうこれ以上取り残されてはいけない」という地方社会の悲壮なObsessionに転化し、そのマインドを見抜いたITベンダー系の企業に現在進行形で狙い撃ちされている。
 
論旨を戻す。しかし実際に、彼らは地方社会の一体何を解決しろ、と言っているのだろうか。
 
本書「イタリアのテリトーリオ戦略」の冒頭に記された、生産量と販売目標を尋ねられたイタリアのチーズ職人が困惑し、解答に窮するエピソードがここに重なる。

経済/社会/環境のバランスを回復させる農村振興が北米等の大量生産型農業には生み出せない唯一無二の、つまり地方固有の価値の創出と競争優位性の獲得に繋がる(p10)と考え、地方政策の指針とし、一定の結果を獲得しつつある欧州の現在地を緻密に分析し、論理展開を試みる本書の存在は、GDP向上を至上命題とし、各地域に地方創生という名の経済成長を要請し迷走し続ける国内の現状に対し極めて重要な示唆を与えるものと思われる。
そして現在の〈拡大と成長を自明/当為とする〉時代ではない、という疑いようのない事実がこの申し入れに対し裏書きを与えるだろう。
 
  〈地方〉の一次産業6次化は長く語られてきたものの、何故国際競争力を有する産品が日本には生まれ得ていないのか。日本とのEPA締結への交渉局面において、EUは何故〈原産地〉表示に執拗にこだわったのか。
日本の〈地方〉。EUの〈原産地〉。本来属性値の異なるこの二項は、しかし異なるがゆえに一貫したパースペクティブのなかで論理的に再検証される必要がある。そしてEUの〈原産地〉が拡張された、現在のキー概念がイタリアの「テリトーリオ」であると示唆するのが本書である。
 
引き続き、地方の局面に関して。本書が提示する「内発的発展」という無形の構造を最も定義できていないのはおそらく日本だろう。地域産品を使い名乗りを上げ相応のコストを流し込み、プロモートすれば当然売上は上がる
   そのプロモートが届く範囲、あるいはコストが続く期間においてのみ 一方エミリア州のモデナ県の一部のコムーネ(自治体)の産品に過ぎないProsciutto di Parmaは現在も国際的、つまり外部に向けて存在感を発揮し続けているのだ。パルマだけではない。多くの特色あるイタリアの地域産品がここに続いていく。
 
  地域に紐づけられた産品。では地域とは何か。日本側の地方都市に問われているのは「縮小」の受容期における「持続可能性」    環境負荷を軽減し、一定レベルの生活の質を継続的に再生産できる、そして「かたち」   単に建築、都市計画上の空間にとどまらず、人々の働き方、暮らし方を含む経済・文化・社会的な諸活動の総体 が構成される〈空間〉と言えるだろう。そこに価値創造の源泉、あるいは論理的基盤が生成される。であるとするならば戦略は変わってくるはずだ。イタリアのテリトーリオの存在はその時自然に視界に入ってくるだろう。本書が指摘するように、都市と農村を社会的亀裂の間に置くのではなく、食やエノガストロノミアを媒介とし統合する創造的な試みが     既に立てられているのだから。
 
  スローフード関連。トリノ近郊から始まったこの食のネットワークは、現時点において何かを中心とするハブ型の構造ではないという点に注意する必要がある。むしろ「中心の不在」が本質的不均衡を孕みながらも構造を柔軟で強固なものにしている。この構造は自身を相対化し客観的な視座を与え、特徴を顕在化させる性質を有する。参加者が自分の仕事に自信を取り戻した、というエピソードがその効果を最も明確に示している。個人的に、この構造はエツィオ・マンズィーニ氏の語るコミュニティデザインにも同期する。同氏のコミュニティ思想は絶えざる変化を自らに要求し続ける、或るリゾーム的な錯綜体と見るのが妥当ではないかと愚考するが故である。
そして(普段日伊間に身を置く)私は日本側のシーンに対し日頃、この辺りがどうにも伝わらないというもどかしさを感じている。

突飛な話と思われるかもしれないが、この国では時折人文書のレビューに「何が言いたいのかよくわからない」というフィードが並ぶ。この視線に19世紀末からの人文史的な潮流は見えていない。〈正しい読み方〉で理解できないのだとすれば、そのテクストは論理の中心に置かれていた形而上学的要素    市場の見えざる手、超越的視点、あるいは神の存在etc、を回避しつつ、対象のダイナミズムをいかに動態的に捉えるかという命題に対し、誠実であるという証左でもあるのだから。いずれにしても私は今後国内におけるソーシャルデザインを考えていくうえで、この非対称性のテクニカルな分析はいずれ必要になる、と考えている。
 
  コモンズ的観点から少し。「地方の論理, (2020), 岩波書店」によれば、小説家である司馬遼太郎は晩年、日本のかたちを一番歪めているのは土地所有制度であると強く主張している。私的所有権が強く保護される日本では土地のコモンズ的空間形成への転用は実は相当難しい。あるアーティストは個人で広大な土地を取得し、自然とともに自身の壮大な世界観を展開させたランドアートの私設美術館を実現させたが、最も困難だったのは地目     農地からの用途変更だった、と語っている。もちろんコモンズの精神=土地の問題ではない。しかし空間軸の視点で持続可能性を論じていくことが重要だと論ずる同書は同時に北欧諸国の「自然享受権」の存在を提示している。例えばスウェーデンでは、一泊程度のキャンプ利用であれば他人の土地でも利用する権利があるという。その視線は本書が指摘するオープンアクセスな社会関係資本を守り管理する、というテーマに繋がるのかもしれない。
しかしいずれにしても6次産業化や食品クラスター論とは異なるアプローチを論ずる本書の提案は大変興味深い。特に本書が述べる内発的発展モデルの形成と展開に関しては国内においても臨床段階に入るべき、と感じる。もし既に入っているならばその成果に個人的に強い関心を持っている。
 
補足として。本書は「テリトーリオの内発的発展」の条件にガバナンスを含む5項目を挙げているが、前述した書籍の著者である北海道大学公共政策大学院客員教授の小磯修二氏によれば、米政治学者エリノア・オストロム氏によるコモンズのガバナンスに関する研究において、民間統治によるコモンズ成立が論理的に立証され、さらに自主的協力行動の可能性がゲーム理論を用いて分析されている。私自身まだ未読なのだが、機会を見て読んでおきたいと考えている。
 
  テリトーリオにおける経済価値と社会価値から。個人的にはイタリアのテリトーリオにおける価値創造のシステムに〈象徴交換〉の構図を重ねて見ている。価値形態論によれば商品の価値は他の商品の「使用価値」との関係でしか表現できない。しかしそれは商品の話である。もし仮に〈ギフト〉であるとするならば    それは象徴交換となる。少なくとも使用価値ではない。優れたギフトは使用価値では定義しきれないのだから。
 
かつて、クラフト・工芸領域におけるものづくりの動機を「〈花〉に向き合う」ことと解した。私自身も過去ヒアリングを試みたが、伝統工芸の作家やクラフト領域の作家の視界には、想像以上に「大文字の日本」らしさやイタリアらしさといった要素は入っていない。バウハウスやミニマリズムetc、といったデザイン言語もない。であるならば結局、彼らは自分自身の内面、つまり〈花〉に向き合ったとしか言いようがない。従ってそれは    商品としての使用価値ではなく、普段の生活の視線の中にある、代替不能な価値の象徴    つまりギフトになる。そして象徴の交換によって連帯の契約がなされていく。そのような仮定を試みたとき、本書が示唆する「テリトーリオ」    社会経済的、文化的アイデンティティを共有する空間の、その前後はより発展的、かつシームレスに接続されていくようにも思われた。

贈り物が差し出された時、重要なのは中身ではなく、贈り物を受け取る瞬間に、贈った者と贈られた者との間に樹立される関係である。[...] 世の恋人たちは誰でも知っているはずだ。恋人への贈り物に私の愛を象徴させるには、役に立たない、どこにでもある、ありふれた贈り物でなければならない。そうしたものを贈るときにはじめて、その使用価値は不問に付され、贈り物が私の愛の象徴になりうる。

      『How to read Lacan』, (2008), スラヴォイ・ジジェク, 紀伊国屋書店


余談だが、イタリアの著名なある工業デザイナーがメディアに向けて行ったプレゼンテーションのなかで、こう述べている。
「誰の意見も聞かない。貴方が好きかどうかもわからない。100%自分自身、100%ジウジアーロ・カーです。」
この言葉によれば、彼がデザインしたものはプロダクトではなく〈ギフト〉である。従ってそれは象徴的交換の図式を伴って贈られた者を拘束していく。ある種、極めてEgoisticな愛情のかたちではある。
 

もし〈象徴交換〉の共同体、あるいは経済圏なるものが現在の日本に存在するとしたら。本書の存在は今もなお、さまざまな観点と思考を私に投げかけ続けている。
 
地方に生きる人間の一人として、本書の提示する「テリトーリオ」の大きな可能性とその重要性を強く受け止めている。
 
 
 
 
参考文献
『トリノの奇跡 縮小都市の産業構造転換と再生』, (2017), 脱工業化都市研究会, 藤原書店
『新ラグジュアリー 文化が生み出す経済10の講義』, (2022), 安西洋之, 中野香織, クロスメディアパブリッシング
『日々の政治』, (2021), エツィオ・マンズィーニ, ビー・エヌ・エヌ新社
『地方の論理』, (2020), 小磯修二, 岩波書店
『感性の思考 美的リアリティの変容』, ヴォルフガング・ヴェルシュ, 勁草書房
『How to read Lacan』, (2008), スラヴォイ・ジジェク, 紀伊国屋書店

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