南向きのヨウコの部屋で ~小うるさい日常~

南向きのヨウコの部屋で ~小うるさい日常~


『その答えは、九九・九九九九九九九九九…………%正解だね』
  ――緋琴月准教授。『水が土に変わる』より

      *

 その音は、ベランダを正面にして左手にある部屋から聞こえてきた。
 壁に、耳を当ててみる。

 コンコン コンコン コンコン   コン
 コンコン   コン コン   コン
   コン コン   コン     コン


 延々と繰り返される、規則的な音、音、音、音。
 いつからここは、平凡であることだけが取り柄のメゾン・サウスは、ホーンテッドマンションになったというのか。ふざけんな契約不履行だ出るトコ出るか責任者出て来いや。
 メゾン・サウス二〇五号室の住人であるヨウコは、壁にもたれかかって缶ビールを飲みながらぼんやりとそう思った。南向きのヨウコの部屋に、今日最後の濃橙色の日の光が射し込んできている。その光を浴びて、ベランダの鉢植え達が精一杯今日最後の光合成をしている。アロエは伸びすぎなのでそれ以上成長されると困るなー、と思う。午後六時。夏の夕暮れだ。外ではセミがわんわんと鳴き、飛行機が重低音を響かせながらどこかの国へ飛んでいき、風は吹いておらず、相当に暑そうだった。最も、室内は地球の平均気温(つまり十五度前後である。昔の彼氏から教わった)に保たれているので、肌寒さこそ感じるが汗ばむことはない。
 ヨウコは壁際から離れると、ビールの缶を机の上に置いてごろりと横になった。目を閉じる。世界が音だけで再構成される。
 電車の通過音。車のクラクション。さーおやーさおだけー。信号機から流れるとおりゃんせ。
 そしてそれに混じって、

 コンコン コンコン コンコン   コン
 コンコン   コン コン   コン
   コン コン   コン     コン

 その音は、いつも通り五分ほど続いて、止んだ。

      *

 ガンガンガン。煩くて、目が覚めた。
「うらー、開けろー。サチコさまが来たぞー」
 ガンガンガンガン。
 いつの間にか、寝ていたらしい。ニートであるヨウコには時間があり余っているので、好きな時に好きなだけ眠れる。ちなみに無職のくせに金もあり余っていて、だから余計に睡眠時間は増えるのだった。
 ガンガンガンとサチコは隣近所の迷惑も考えずに扉を叩きまくる。誰も文句を言いに出て来ないのは、このマンションに住む人たちが大らかなのか揃いも揃って耳が悪いからなのかあるいは係わり合いになりたくないのか。おそらく最後のパターンだろう。
「鍵なら開いてるよーぅ」
 アルコールが抜けきっていないぼんやりとした頭で叫び返す。
 壁にかかっている時計を見上げたら午後十時だった。サチコがやって来る時間にしてはかなり遅い。フリーターであるサチコは、無職であるヨウコに負けず劣らずボヘミアンな生き方をしているが、意外なことにパンクチュアルな奴である。何かあったのだろうか。
 うおー涼しいと叫びながらサチコが部屋に入ってきた。
「ちーす、ヨウコ。ほら、今日は米を持ってきたぞ。褒めろ称えろ崇めろ奉じろそして拝め」
「黙れうるさい口閉じて静かにしろ。米以外の材料は全部私の負担だろうが」
「細かいことは気にするな。ところでタバコない? もう六時間くらい吸ってなくてさー」
「ほらよ」
「一ミリー? 良くこんなの吸ってられるな」
「じゃあ返せ」
 ヨウコが手を伸ばすとサチコはひょい、とスウェーでかわして楽しそうに文句を言いながら吸い出した。
 サチコが汗かいたから風呂だと言ったので、そのあいだに食事の支度をする。
 と、カラスの行水よりも短い時間で全裸のサチコが出てきて、
「母さん、バスタオルはどこだい?」
「誰が母さんだ。自分で探せ。パンツ穿け」
「主婦に憧れてるくせに」
「……飯抜きにするぞ」
 今日のメニューは蟹鍋だ。ガスコンロと具材一式を居間のテーブルに運ぶ。米くらい炊けとサチコに言ったら素直に嫌だと言ったのでご飯は後だ。
「そう言えば、今日は何で遅れたの?」
「そうだ。それを報告しようと思ってたんだった」
 断りなくビールと枝豆を冷蔵庫から出して、ティーシャツとパンツだけで野球のナイターを観戦しているサチコの姿は嫁入り前の娘の姿とはとても思えず、ヨウコは限りなく深い溜息を吐き、
「……やっぱりいい。遅刻の言いわけなんて聞きたくない」
「何だお前自分から振っておいて」
「口に物を入れたまま喋るな――いいだろ別に。ほら、テーブルの上片付けろ」
「私は客だぞ」
「うるせー」
 いつもの軽口。そして鍋の用意ができ、米が炊き上がり、いつも通りにサチコが鬼の鍋奉行と化し、ぎゃあぎゃあ言い合いながら食べ終わった。
 ヨウコは一人で後片付けに入る。サチコは本当に何もしない。本人曰く何でバイト先で皿洗ってんのにここでも同じことをせねばならんのだ、ということらしい。それをサチコが真顔で言うのを聞いた時、ヨウコはぶち切れて無理矢理皿を洗わせたのだが、サチコはシンクにあった十二枚の食器の他、何故か三メートル離れた棚のカップ八つまでも粉砕するというウルトラCを決め、以来こいつを流し台の前に立たせていない。
 こいつは本当にバイト先で皿洗いをやっているのだろうか。ヨウコの疑惑の目線に、今度は腹這いになってスルメとカップ酒を呷りながらバラエティ番組を見てげらげら笑っていたサチコが気付き、何故か頬をぽっと染めてモジモジと床にのの字を書き出したので無視した。馬鹿は分からん。
 片付けを全て終え、ヨウコは疲れの溜息を吐きながらサチコの隣に腰を下ろした。サチコからスルメとカップ酒を奪ってぼんやりとテレビを見る。芸能人の無意味な喋りにいかにも頭の悪そうな笑い声のSEがバックに流れる。
「つまらないな」
 ヨウコが呟くと、突然テレビの電源が切れた。一体何事かとサチコを見遣ると、奴はにやにやと笑いながらこちらを見ていた。瞬間的に寒気を感じ、思わず腰を引くと、同じ分だけ近寄ってくる。
「ではおじさんと楽しいことしましょ――っ!!」
 叫び、襲いかかって来たサチコにカウンターの膝をぶち当てるが、にやり、と笑っただけで大したダメージを与えることができなかった。断っておくがヨウコはヘテロである。一人暮らしをしている原因も、大学で付き合っていた男と電撃的駆け落ちを敢行し親に縁を切られたからだ(ちなみに男とは駆け落ちして二週間で男の浮気が原因で電撃的に別れた)。
「ちょ、こら、やめ――! あ、駄目だ、そこだけは駄目――――っ!!」
 叫びつつ適当に振り回した肘がごすっ、といい音を立ててサチコのこめかみにヒットした。
「あ」
 当てたヨウコが後悔するくらいいい手応えだった。サチコは笑顔のままゆっくりと横に倒れて動かなくなる。手足が微妙に痙攣したりしているが、こいつのことだ、そのうち復活するだろう。
 ふう、と溜息を吐いて乱れた衣服を整える。しかし、サチコの手つきは慣れているを越して熟れた動きだったのだが、こいつのバイト先とは一体何処で何をしているのだろうか。疑惑は膨らむばかりだ。
 遠くから、電車の通過音がぼんやりと聞こえてくる。この時間だ、恐らく終電だろう。サチコは今日も南向きのヨウコの部屋に泊まり、そして自分はこの女に振り回されるのだ。そんな生活は――
「つまらない――ことはないな」
 ぼやき、ヨウコは立ち上がって布団を敷くためにサチコを部屋の隅へと蹴飛ばした。

      *

 それは、いつものように聞こえてきた。

 コンコン コンコン コンコン   コン
 コンコン   コン コン   コン
   コン コン   コン     コン

 しかし、いつもと違った。パターンが、ではない。パターンは毎回必ず同じである。
 時刻だ。
 ヨウコは寝ぼけ眼を擦りながらそのことに気付く。隣の部屋から壁越しに聞こえてくる謎のラップ音。そこだけ防音の甘い、ベランダを正面として左手にある部屋とこの部屋を区切る壁。音はいつもそこから、夕方になると聞こえてくるはずだった。
 でも、今は。

 コンコン コンコン コンコン   コン
 コンコン   コン コン   コン
   コン コン   コン     コン

 ――午前、三時。
 草木も眠る、もちろんまともな人間だって寝ている時間で、つまりは迷惑だった(ヨウコがまともな人間かどうかは取り敢えず置いておくとして)。この向こうにいるのが幽霊だろうが人間だろうが時刻くらい弁えてくれよ、とヨウコは思った。
 薄っぺらいカーテンをすり抜けて、ベランダから希薄な夜の街光が室内に忍び込んできている。サチコはソファの上で猫のように丸くなって寝ていた。時計の針が規則的に進み、遥か彼方で車が急ブレーキを踏み、それに対して誰かが怒鳴り返して、サチコがいびきを遠慮なくかく。ヨウコは取り合えずサチコの鼻を抓み、暗い部屋の中そこだけ輝いているように見える白い壁に目を向けた。
 恐怖は感じない。苛立ちが強かった。壁をぐっと睨む。
 やがて音は止んだ。
 溜息一つ。寝よう。
 寝た。
 その時、サチコが、
「明日は雨のちタイヤでしょう! 各地で雷雲を伴った強い火山性ガスが吹き荒れるのでラグランジュポイントにそんな異常事態が? 簡単な事実だよワトソン君、位置だ、位置が超重要なのじゃよ! ……はっ、ヨウコ、今私変なこと言ってなかったか?」
 目覚ましを投げてやった。

      *

 翌朝。クーラーのタイマーが切れ、暑さでヨウコは目を覚ました。
 まず、ソファからずり落ち、器用に目覚し時計を頭に載せたまま爆睡しているサチコを叩き起こして朝食を二人前作り、ニチアサ番組を起きて早々食い入るように観ていたサチコを食卓に無理矢理つかせ、さて心機一転気持ちよく農家の皆さんに感謝しつつ(ヨウコは和食の朝ご飯以外認めていない。そちらの方が主婦らしいからだ)いただきまーすと言おうと口を開けたその時、サチコがこう言った。
「謎の迷惑ラップ音の件だが」
 思わず、サチコの顔を凝視する。こいつには何も伝えていないはずだ――あるいは、聞いてしまったのか。ヨウコは少し慌てる。あの件のことは何となく自分一人の胸に秘めておきたかったからだ。
「いや、迷惑ってほどでもないけど。あ、サチコが煩いと思うんならお隣に文句言っとくから――」
 サチコは行儀悪く手に持つ箸をこちらにずいと向け、ヨウコの言を封じると続けた。
「謎は解かれるべきだし、不条理は理解されるべきだ」
 変に真面目ぶってそんな科白を吐いたが、恐らくサスペンスか推理小説のわかり易い影響を受けたのだろう。ヨウコは普段から割とドラマやミステリーを読むが(今も『助けて』などという変なタイトルの小説を読んでいる途中だ)、別に好きなわけでなく、格好の暇潰しの材料として消費しているだけなので、サチコが嬉々として「この世に不思議なことなど何もないのだよヨウコ君」などと言っているのか理解し難い。
 が、理解し難いというのは要するに理解したその上で理解を拒んでいるということで、つまりヨウコはサチコが少し羨ましくなったのだ。
「――いいよ、放っておいて」
 だが、もちろんやる気になったサチコを止める言動がこの世に存在するわけがなかった。いーや、そうは問屋が卸さねえ、と、恐らく本人にしてみれば格好の良いポーズを決めると(よく見たら先ほどTVでやっていた特撮番組の変身ポーズだった)、物凄い勢いで朝食を食らい始めた。
 ヨウコはしばらく呆気に取られていたが、やがて自分の分のおかずまで消費されているのに気付くと食卓という名の戦場へ飛び込んだ。

      *

「お前は頭が悪い」
 と、食後のお茶を飲み干したサチコが言った。反論する気力もないヨウコはお前もだろうが、と軽く返す。すると、サチコはあっさりと頷き、
「お前の頭が悪いんだから私も悪いに決まっているだろう」
 類は友を呼ぶとは信じたくないが、サチコの頭が悪いのは先刻承知なので、ヨウコは複雑な気分でああそう、と言った。
「馬鹿女が二人では恐らく謎は解けないだろう」
 よって、とサチコはお茶のおかわりを催促しながら続ける。
「――助っ人を呼ぶ必要がある」
 おかわりのお茶を入れながら、ヨウコはよほど嫌そうな顔をしていたに違いない。サチコは仰々しい真顔をころりと獰猛な笑みに変えて、
「楽しいことは皆で分かち合うべきだ!」
「楽しくないからいいよ……」
「私が楽しいことは人類にとっては普遍的に楽しいことのはずだが?」
「主語がデカ過ぎる……」
 溜息を吐き、
「大体さ、助っ人呼ぶにしても相手が承諾してくれるわけがないよ。こんな面倒臭い上にどうでもいいことに」
 だがサチコはちっちっちと気障ったらしく指を振ると、
「勿論謝礼の用意はしてある」
「嘘つけ。あんた金ないだろ」
「うん。だからヨウコが出せばいいだろう」
 さも当然のことのように言い放った不覚にもヨウコは言葉に詰まってしまい、その隙にサチコは楽しそうに言いつのる。
「どれくらいが妥当な報酬か調べる必要があるな。ネットで――そうだな、探偵の報酬の相場でも調べよう。探偵。うん、いいな。あ、この家パソコンなかったな。よし、ネットカフェに行くぞ。大丈夫、少し高くてもどうせ雇うのは一日だけだから大した額にはならないって。でも有能な奴じゃないと駄目だな――ってヨウコさん、そんな顔をされるとお姉さん嬉しくなっちゃうんだけど?」
 マシンガンのように喋り続けるサチコを睨んでいたヨウコは、この馬鹿と出会ってから儀式のようになっている動作を行った。即ち、肩を落として溜息を吐いた。サチコは、と見ると、やはり楽しそうにこちらを見ている。
ちぐはぐなにらめっこが一分ほど続き、先に根負けしたのはやっぱりヨウコだった。
「ネカフェ代はお前持ちな……」
えー、と抗議の声を上げるサチコに対して、ヨウコはついに実力行使で黙らせた。

      *

 外に出るのは嫌だ、と言うと、サチコは何が面白かったのか爆笑し始めた。
「何がおかしいんだ。別に二人で行く必要なんかないだろう。お前一人で行って来い」
 まだ笑っていやがる。今のは少し子供っぽかったかな、と思い直し、
「お前、バイトは大丈夫なのか? そろそろ帰った方がいいだろ。帰るついでに調べて来い」
 ようやく笑いを収めたサチコはしかし首を横に振った。
「あんたが払うんだから、あんたが調べた方がいいよ」
 無茶苦茶であるが、一応正論であるところが腹立たしい。人生は開き直る者が勝ち、諦めた者は不戦敗する。サチコは前者で、ヨウコは後者だ。
「……分かった、行くよ。その代わり言いだしっぺはお前なんだから、せめて半額は金出せよ」
「領収書お願いねー」
「はいはい。ところで本当にバイトは大丈夫なのか?」
「今日のバイトは遅番だから余裕余裕」
 にやりと笑い、
「というわけで、時間はたっぷりとあるから事件の概要を教えてくれ」
 事件て。
「……知らないで探偵だーとか言ってたわけ?」
「いや、私は時々変な音聞くだけだからさ。いつ頃から起きてるのか、とか、音がする時間帯とか、そんなことはさっぱり」
 さあ語れ、と迫られて、ヨウコは嫌々ながらも喋り出した。
「あれは――」

 三ヶ月前から、その音は聞こえ出した。
 ベランダを正面として左手にある部屋からだった。
 壁に、耳を当ててみるとよりはっきりと、何かが壁を打つ音が聞こえる。

 コンコン コンコン コンコン   コン
 コンコン   コン コン   コン
   コン コン   コン     コン

 夕方から聞こえ初めて、五分間続いてから止む。この壁の向こうに住んでいるのは老夫婦で、たまにヨウコが彼らを見かけると、ああ、死んでなかったんだなあ、と不謹慎なことを思うほど、滅多に人前に姿を現さない。

「ああ、でも私も何度か見たことがあるぞ。そのご老人たち。何か偉そうな格好してたな。婆さんだけの時も見た」
 それまで黙って話を聞いていたサチコが口を挟んだ。
「ラッキーだな」
「いや、ラッキーっていうか。実はその夫婦は普通に外出しているけどあんまり外に出ないお前が気付いていないだけじゃないのか」
 サチコの現実的突っ込みにヨウコは弱気になり、
「そうかも……」
 と自信なさげに言った。
「えー。私はてっきり隣は無人だと思ってたんだけどなあ」
「無人だったら音がするはずないだろうが」
「それこそ謎のラップ音じゃん」
「とにかく隣には人が住んでるの」
「謎の老夫婦ねえ……」
 なおもぶつぶつと呟くサチコ。
「話を聞く気があるのかお前」
 ごめんごめんと誠意ゼロでサチコが謝り、ヨウコは先を続ける。

 とにかく、その音は不定期に、ただし時刻だけは決まって――夕方だ――聞こえ続けた。音は何か規則的だったが、ヨウコにはどんな意味が込められているのかわからない。
 体調不良などで苛々している時にその音が聞こえてくると流石に腹立たしくなってくるので、壁を強く叩き返したこともあるが、そうすると音は止まった。
 一度文句を言いに隣の扉を叩いたことがあるが、返事はなかった。すわ、中で老衰死かと思ったが、何日か後に夫婦を見かけたので胸を撫で下ろしたこともある。

「やっぱり人かあ」
「だからそう言ってるだろう」
「見かけた時に問い詰めれば良かったのに」
「やらいでか。聞いても知らぬ存ぜぬの一点張りだったよ」
「本当か?」
「私がお前に嘘を言ってどうする」
「いや、その老人共が嘘をついているかも知れないじゃん」
 そう言われて初めてヨウコはその可能性に行き当たった。何故今まで思いつかなかったのか不思議だ。というか普通はそうだろう。
ヨウコのその表情を読み取ったらしく、サチコは呆れた顔をして、
「その歳でドジっ娘キャラか……」
 ヨウコのチョップをひらりと交わし、サチコは、で、もう終わりか? と聞いてきた。
「……まだある」

 音は壁のヨウコの腰程度の高さから聞こえてきて、繰り返されるコンコンコンは左から右に移動する。
 あと、返事が来るかと一度だけ真似して叩き返してみた時も、壁の向こうは沈黙した。その後何故か大家さんがやって来て、何か変わったことはないかと問われて、何故か戸締りに注意しろと言われた。
 無論、何故そんなことを言われねばならんのかとヨウコは食いついた。このアパート、メゾン・サウスをヨウコが気に入っているのは南向きであることと、駅から割と近いことと、住民が互いに無関心であることなのに。すると、大家さんは気まずそうに笑って、無事ならいいんだ無事ならと見当の外れたセリフを言いながら去って行った。

「その時の叩き返したパターン思い出せる?」
 サチコの質問。
 ヨウコはしばらく考え込んだが、頷くと、テーブルを叩いてみせた。

 コンコン コンコン コンコン   コン
 コンコン   コン コン   コン
   コン コン   コン     コン

 サチコは興味深そうに見入っていたが、叩き終わると拍子抜けした様子で、
「んん? これだけ?」
 そう、これだけと頷き返すと、サチコは指をコンパスの様にしてヨウコが叩いたパターンをなぞったりして、それでも何もデータを得られなかったらしく、唸りながら、
「お決まりのモールス信号でもなければ、五音階でもないし、何だこれ?」
「便宜的にラップ音でいいんじゃないかな」
「人がやってるっていったのはヨウコじゃん」
「そうなんだけど……」
 正直、人がやっている方が気味が悪いと思う。意味が取れないくせに妙に規則的な音を隣人に聞かせ続ける神経が分からない。幽霊よりも性質が悪い。コン、コンコンコンコン……。執拗に。不定期に。でも規則的に。コンコンコンコンコン。老婆が真っ赤な歯のない口内を見せ笑いながら、
「まあ、犯人はその老人夫婦で間違いないだろうな」
 サチコの言葉に、ヨウコは妄想に落ちかけていた思考をひっぱり上げる。
「え?」
「決まってるじゃん。隣に住んでるのは老人共だけなんだろう。犯人は分かってるんだよ。後は、この音の意味と、意図が問題だ」
「じゃあ、やっぱりあの人たちが嘘付いてるってわけ?」
「そうだろう。老夫婦も知らない謎の第三者が隣に住み着いているとしたら話は別だが」
 気味の悪いことをさらりと言い、サチコはうんっと伸びをした。
「あ」
「何だよまだ何かあるのか?」
「うん、昨日の夜――っていうか深夜三時にも聞こえたの、ラップ音」
「深夜に?」
「そう」
「ふーん。ご苦労な話だな。では、そろそろ帰るわ。あ、これ、ネカフェ代な。釣り銭返せよ」
 三千円を薄い財布から取り出し、ラップ音モドキが聞こえたり、何か分かったら連絡を、と言ってサチコは帰って行った。広いリビングルームに、ヨウコは一人取り残される。大変なことになった、とヨウコは思う。面倒くさい、とも。でも。
「当座の目標は出来た、かな……」
 生きるために生きるのは、ただただ苦痛だ。楽しむために楽しむ行為が苦行でしかないのと同様に。こんなことを考えるのは、それこそ老人くらいなものだろう。枯れてるなあ、と思い、ま、いっかと思い直す。
 昼食にソーメンを作り、食べ終え、カーテンを閉めて日光を遮り、クーラーのタイマーを入れて布団を敷いて、寝た。
 生きるために必要である退屈な行為も、目標が出来ると楽しくなるものだ、と思いながら。

      *

「『ある命題が偽であることを証明するために、その命題が真であると仮定し、その結果矛盾が生ずる例を挙げることによって、その命題が偽であることに帰着せしめる』。帰謬法の定義だね。しかし、世の中には真であると固く信じられている命題であっても往々にして矛盾した結果が生じることがある。それでも世間はそれを真だという。戦争、死刑、憲法。自由恋愛、男女同権、幸せな人生」
 にっこりと微笑み、言葉を続ける。
「故に、帰謬法は矛盾してるので、そこから導かれる解は偽である」
 緋琴月はそう言うと、わざわざ注文させたマシュマロ入りコーヒーという何かが壊れている飲み物を幸せそうに一口啜り、思い出したようにこうつけ加えた。
「今のが帰謬法の正しい使い方だよ」
 一体自分は何をしているのだろうか、とヨウコは我が身を振り返って思った。
 寝て、目覚めたら夕方で、ラップ音が聞こえないか五分ほど度耳を澄ましたが何も聞こえず、しょうがないのでシャワーを浴びて三千円を持って歩いて五分の駅前のネットカフェに来た。
 ここまでは良い。
 問題はそれからで、ネットで探偵の報酬相場を調べ、想像より一桁上の値段設定に社会的義憤を抱いていると、隣のパソコンから、高いなあ、とのんびりした声が聞こえてきた。さては同志がいたものかと思って隣をこっそり覗き見ると、ネット通販の画面で、色取り取りの可愛らしいお菓子の画像が所狭しと並んでいた。
 値段の数字を見てしきりに高い高いと楽しそうに呟いているのは、何故か白衣を纏った小柄な女性だった。ヨウコは人の年齢を推し量るのが苦手だが、二十代半ばと言った様子だ。それにしたっていい年した大人で、あんなに子供趣味な菓子をニコニコしながら眺める歳ではなかろう。
「何か用?」
 突然、女性がくるりと椅子を回して振り向いた。白衣の裾がふわりと浮いた。
「すみません、別に用は――」
 横から画面を覗き込んで用もないというのもあれだが、とにかく謝ってどっかに行こう、と思った。面倒そうだ、とも。
 ヨウコの推測は当たっていた。でも、希望は叶わなかった。
「良かった」
 女性がにっこりと笑った。何がですか、とヨウコが問い返す前に、女性は朗らかに言った。
「用がないのなら、少しつきあってくれるかな?」

 自分の名前は緋琴月だと、女性は名乗った。ヨウコも自己紹介をする。緋琴月が自分はN大学の准教授をしていると言ったのでヨウコも自分がニートであると告白せざるを得なかった。言ってから馬鹿正直に答える必要もなかったと気がついた。
 それにしても、何でこんな場所に自分はいるのかと思う。女性に連れてこられたのはえらく大時代な感じの喫茶店だった。入った時、古い木の匂いとコーヒーの強い香りがした。
 緋琴月がコーヒー、ブラックでマシュマロ入りね、というわけのわからない注文をしているのを横目に、ヨウコはパインジュース(一番安かったのだ)を頼んだ。
「ヨウコ君、って呼んでいいかな?」
 私って変な人に好かれやすいのかな、と思考しつつ、ヨウコは曖昧に頷。経験則からすると、こういう時は相手に合わせておいた方が楽なのである。
「君、面白いものを調べてたよね、さっき」
 人の前でお絞りで顔を拭いてよいものか思案していたヨウコはその一言で緋琴月に注意を戻した。
「……見てたんですか」
店から出る時にね、と楽しそうに言い、別に私は構わないよ、と続けた。
一瞬、何のことか分からなかったが、お絞りのことだとすぐに気付き、やっぱり変な人だと思いながら(変人と略して言わないのは最後の良心だ)顔を拭いた。
「驚いた」
「は?」
「本当に拭くとは思わなかったから。うん、私の見込み通りの変な人だよ、ヨウコ君は」
「……」
 反応に困る。
「だから――聞かせてくれないかな? 一介の自由人である君が探偵を雇わなくてはならなくなった理由を」
 厳密に言えばヨウコはニート以下のただの駄目人間なのだがそのことは黙っておいた。わざわざ印象を悪くする必要もあるまい。――自分の正体を告げても、この緋琴月という人は、あ、そうで済ましてしまいそうだったが。
「いいですけど、でもこれは友人と話し合って決めたことなので、そいつの許可を取ってからでも構いませんか?」
「構わない、というか、そうすべきだと思うけど?」
 ヨウコは頷くと、携帯電話を出し、
「――ここでかけても?」
 緋琴月が頷くのを見て、サチコに電話した。一コール、ニコール、三コールを待つことなく、サチコは出た。
『ヨウコか? 連絡はメールでっつっただろ。今接客中なのに』
「ごめん――いや聞いてないぞメールでなんて。それに接客中に電話に出るお前の方が問題だろう」
『そういう観察の仕方も存在するかもな。ところで何用だ? 月曜なんて言ったら怒るぞ』
 ヨウコはサチコの軽口を無視した。
「まず一つ。探偵は高くて雇えない。それに、雇うことの程でもないんじゃないかと思う。大体何で探偵なんだこの野郎」
『ん? 何となく。そっかー、雇えないかー。ま、ヨウコがそう言うならいいよ』
 サチコはヨウコが拍子抜けするほどあっさりと言うと、『で、まさかそれだけ?』と続けた。
 ヨウコは気を取り直し、
「いいや。お前風に言うと助っ人が現れた」
『そりゃまた奇特な上に都合の良い。ボランティア?』
「報酬の話はまだしてない」
 緋琴月の方に視線を遣ると、驚いたような顔をしていた。『報酬』なんて単語が出れば当然だろう。――緋琴月の表情はヨウコが推測した物とは違っていたが、ヨウコに悟られる前に緋琴月は表情を消した。
『ふうんますます奇特だな。脳が危篤なのかも知れん。で?』
「だから、その助っ人に話をしていいか?」
『別にいいよ』
「――別にって。信用できない人だったらどうするんだよ。まだ会ってからろくに時間も立ってないんだぞ」
 再び、サチコが余りにあっさりと言ったことに、少しかちんと来た。ヨウコが乗り気でないことは長いつきあいのサチコだったら口調から分かるだろう。断ると思っていたのに。目の前に本人がいるのを忘れて、思わず暴言を吐いてしまう。しまったと思い、ちらりと緋琴月を見ると、彼女は電話中にきたコーヒーを、何か考え込む顔をしながら啜っていた。
『人を信用できるかどうかってのは時間の問題じゃないと思うが』
 冷静な指摘に、しかしヨウコは反論する。
「要素の一つだろうが」
『時間が必要なのは信頼。信用じゃない。いいからその人に話してしまえ。駄目で元々だ。何かまずいことになりそうだったら私にまた電話しなさい。おやつは棚の中ね。アデュー』
「ちょ――」
 電話は切れた。溜息を吐くと、くすくすという笑い声が聞こえてきた。
「ヨウコ君たちはおもしろいね」
 意味ありげな言い方にヨウコが眉を顰めると、ごめんごめんと言いながら、しかし緋琴月は言葉を重ねた。
「友達は大事にしなよ」
 ヨウコは更に溜息を――吐こうとして押し殺した。何となく、こんな状況になっているのは溜息のせいのような気がしたからだ。
「友達の許可も出たみたいだし、話してくれるかな?」
 ヨウコは溜息のかわりに、やはり電話中にマスターが無音で持ってきていたパインジュースを一息に飲み乾すと、サチコとの会話を緋琴月に語った。

 語り終えて返ってきたのが帰謬方云々という話で、ヨウコには正直どう繋がるのかさっぱりだった。
「えーと……?」
「つまり、この場合命題は真だと分かっているんだから、『ある命題が真である事を証明するために、その命題が偽であると仮定し、その結果矛盾が生ずる例を挙げることによって、その命題が真であることに帰着せしめる』とするんだ。この場合は、『ラップ音は人間が起こしている』っていうのが前提だね。出来ればヨウコ君も心霊の存在なしに解決したいよね?」
「まあ、それは」
「じゃあ、はじめようか。ヨウコ君の話の中で出て来た嘘――乃至、真実でない事柄は?」
 言われて、少し考え込む。
「それは……老夫婦が『音なんて知らない』と言ったことですか? それが嘘でしょう」
「そうだね。彼らが音を知らないというのなら、君の友達の言う通り、第三者か幽霊がいることになってしまう。でも実際問題として、その可能性は極めて低いとしか言いようがない。幾らなんでも第三者がいたら大家さんが気づくし、幽霊なんか出るとしたらそれこそ噂の一つでも立ってないとおかしい。まあ、これだけで大抵の理性的な人間は納得してもらえると思うけど、まだヨウコ君は納得していないみたいだから一つづつ片付けていこう。まずは――」
「音が不定期に、ただし時刻だけは決まって夕方に聞こえることですか?」
「そうだけれど、違う」
「え?」
「違うけれど、誤解しているようだから説明しておこうか」
 緋琴月は少し考え、こう言った。
「ヨウコ君はいわゆるニートだよね」
 突然代わった話題に面食らい、ヨウコははあ、と頷く。
「起床時間は不定期なんじゃないかな」
その通りだったので黙っていたが、ふと緋琴月の言葉に引っかかった。
「……不定期」
 緋琴月は涼しい笑みを口元に貼りつけ、
「ラップ音は不定期に、でも必ず夕方に聞こえてくるっていうのは、間違いだよ」
 ヨウコは思い出す。深夜三時に聞こえてきた音のことを。ヨウコはあれを例外的事例だと思い、サチコにも軽く話しただけだった。だが――実は昼夜を問わずに聞こえていたのだとしたら?
「私が寝ている間にも、常に聞こえていた……?」
「恐らくね。さて、次だ」
 次なる謎と言えば、やはり音の意味だろう。そう思って尋ねたら、
「まあ、その前に次元の低い謎から解き明かしていこうじゃないか。

 老夫婦が何故君のアパートに暮らしているのかという謎を」

「は?」
 何を言っているのだろう?
「おかしいと思わないかな? 年金生活をしているだろう老夫婦が、南向き、駅近くなんていう決して賃金が安いと思えないアパートに暮らしているのは」
「確かに――」
「それに、婦人が一人で歩いているところは見られていても、旦那の方は常に婦人と一緒にしか見られていないようだしね」
 そうだ。その通りだ。
「結論から言ってしまおうか。彼ら夫婦と、そして音の意味は――」

      *

「どうぞ、どうぞ」
 老婦人は、快くヨウコを迎え入れてくれた。
「お、お邪魔します」
 中に入ると、同じ間取りとはとても思えないくらい落ち着いた部屋だった。物の量はヨウコの部屋より遥かに多いのだが、それらが上手く配置されていて、安堵感を覚える。手入れの行き届いた廃墟(byサチコ)みたいなヨウコの部屋とは雲泥の差である。ただ、どうしようもないのが本の量で、目立たないように、しかし聳えるが如くに部屋のそこかしこに積まれたり詰められたりしていた。
「ああ、本ねえ。どうしても量が増えるの」
 老婦人は嬉しそうな顔と困ったような口調でそう言った。
「夫の職業が職業ですから」
 そう。とっくに定年していてもおかしくない夫婦が何故このアパートで暮らしていけるか。
 それは、定収入があるからに決まっている。
「目が見えなくても、書ける物なんですね」
 言ってしまってから失言だと気付いたが、婦人はにこにことして、
「ええ。小説家は俺の天職だと言って憚らない人ですから。必死に点字を勉強しましてね」
 でも、そのせいで彼方にはご迷惑をおかけしてしまったようですねえ、と婦人は言った。
「いや、まあ、その」
 婦人はくすくすと笑いながら、今お茶を入れてきます、と言った。
 目を閉じて、耳を澄ます。世界が音で再構成される。
 電車の通過音。時計の針の音。車のクラクション。さーおやーさおだけー。信号機から流れるとおりゃんせ。部屋中の家電製品が奏でる静かな低重音。
 そしてそれに混じって、

コンコン コン   コン   コンコン 
  コン コンコン   コン コンコン   コン
  コン コンコン コンコン   コン コンコン


 一聞、意味の取れない、しかし確かに意味を孕んだ音たちが聞こえてきた。

      *
 散々もったいぶったくせに、時間がもうあまりない、とか何とか言って緋琴月はあっさりと答えを告げた。
「『盲目の推理小説家』、ですか」
 そうだよ、と緋琴月は言った。
「まあ、推理というか――私が彼の著作を何作か読んでいるから分かったんだけどね。ヨウコ君はミステリーを読むかい?」
「――暇潰し程度には」
「正しい読み方をしてるね。でも、随分ぼんやりと読んでるんじゃないかな? 結構有名なんだけどねこの人」
 そう言って、緋琴月はヨウコが教えた音の羅列を再現してみせた。

 コンコン コンコン コンコン   コン
 コンコン   コン コン   コン
   コン コン   コン     コン

「て・け・す・て。……「たすけて」。彼の人気シリーズのタイトルだよ」
 あ、とヨウコは声を上げた。それは、ヨウコが現在読み差しで置いてある――
「どうやら知っているみたいだね。彼は後書きやエッセイなどで、自分の悪い癖として、締め切りに追われた時、机や壁に点文字を打ってしまう、と書いている。確か、彼は三ヶ月くらい前から幾つかの雑誌で連載を持っていて、非常に忙しいはずだよ」
 音の正体はそれだったのか。
「点字。モールス信号でも、五音階でもない規則的な点音だと、これくらいしかないからね。壁越しだから、左右逆だけどヒントを知っていれば簡単だ」
 四六時中聞こえてきていたわけも理解できた。締め切り寸前の作家に、四時も六時もあるまい。
 出かける時は、常に奥さんと一緒に出るのも、作家先生が視覚障害者だからだ。サチコが見た偉そうな服というのは、授賞式やら何やらの行き帰りだったのだろう。
 コーヒーカップの中に残ったマシュマロをひょいと頬張ると、緋琴月は席を立った。
「――さて、癸君との待ち合わせの時間までつきあってくれてありがとう」
 ヨウコは、ぽかんとした表情のまま、ただ視線を上げる。
「君たちは中々おもしろかった。でも、あまりくっつきすぎない方がいいと思うよ。別れの時が――辛くなるからね」
「……どういう意味ですか? それに私、未来のことはあんまり考えないようにしてるんです。頭が痛くなるんで」
「考えないようにするのは、常に考えてるって意味だよ。未来に縛られるのは良くないね。過去に縛られるよりも良くない」
「現在だけを生きていければそれで結構ですから」
「現在ねえ。そんな点の上を生きるのは苦しいと思うよ」
「意味がわかりません」
「実は私も分かっていないんだけどね」
 そう言って緋琴月は笑った。
「あ、迎えが来たみたいだからこれで」
 見れば、ヨウコより少し年下くらいの男性が、喫茶店の外で手を振っていた。
「さようなら」

      *

「こんな物しか出せなくてすみませんねえ」
 茶菓子を持ってきた婦人がそう言った。ヨウコは慌てて、いえ、充分ですと応えた。
「いーえー。煩かったでしょう? あの人、何遍注意してもやるの。コンコン、コンコンって。前の部屋の人が大家さんに苦情を言って、一時期控えてたんだけど――」
「その時、大家さんと仲良くなったんですね」
 ヨウコの言葉に婦人は目を丸くして、次いで苦笑した。
「ええ、そうなの。大家さん、うちの人のファンだったのよ。だから、あの時大家さんに頼んだの」
 あの時。ヨウコが、音のパターンを真似て打ち返した時だ。
 作家先生は慌てただろう。壁の向こうから、「たすけて」と打ち返されたのだから。悪戯に過ぎないのかも知れない。その確率はかなり高い。健康な女性がわざわざ点文字で危機を伝えてくるとは思い難い。でも、もしかしたら――。
「私達、あなたに『音のことは知りません』って嘘ついてたでしょう? まあ、前の人とトラブルになったからあの人を庇ってた私も悪いんだけど――あなたの家に行くのが後ろめたくてねえ」
 それで、代わりに大家が来て、ヨウコは身の心配をされたというわけだ。
「いずれ私達から貴女の方へ謝りにいかなくちゃと思ってたのだけど、うちの人って、プライド高いくせに恥ずかしがり屋だから。だから、今日は貴女が来てくれて本当に助かったし嬉しかったわ」
「――失礼な質問になると思いますが、奥さんが無理矢理先生を引っ張ってくれば良かったんじゃないでしょうか?」
 この婦人、優しいが気が強そうだ。それくらいならやってのけると思われた。すると、婦人は満面の笑みを浮かべ、
「そんな事したら、あの人拗ねちゃって仕事さぼっちゃうからね」
「それは困った性格ですね……」
「ええ、本当に。それに――私もあの人のファンなの。作品が読めなくなるのは辛いわ」
 そう言って、婦人はころころと笑ったが、あ、と小さく叫んで、
「いえ、でもさすがに家にまで出てきてあの人が出て来ないっていうのは失礼よね。今呼んで――」
 結構ですよ、とヨウコは言った。もう、先生は謝りましたから、と。
「ええ? そうなの?」
「はい。ちゃんとこの耳で聞きました」
 そう、先程目を閉じた時に聞こえた音。点字を暇に任せてマスターした今のヨウコになら分かる。
 その意味は「すみません」。全く、本当に恥ずかしがり屋だ。
 ヨウコが言わんとしていることに婦人は気付いたらしい。ふう、と小さく息を吐いて、
「――本当にごめんなさいね。何か、お礼をしたいのだけれど」
「じゃあ、お言葉に甘えて、一つお願いがあるんですが――」

      *

「うわ! 本が一杯っ! 狭っ!」
 いつもの時間にサチコが部屋にやって来て、喚いた。無理もないだろう。「助けて」シリーズ全十五冊に、同作者の他の既刊ニ十冊余りがリヴィングに積まれているのだ。
「どうしたんだ、これ?」
「いや、それが――」
 ヨウコは、婦人に、読みかけだった「助けて」を差し出して、作者のサインが欲しいと言ったのだが、サイン本なら家に溢れてるわよ、だってあの人自分の本でサインの練習するんですもの、と言った婦人から大量に渡されたのだった。ちなみに、サインは全て点字で書かれていた。徹底している。
「ふーん」
「興味なさそうだな。『事件』がどうなったか聞きたくないのか?」
「いや、知ってる」
「は? 緋琴月って人に会ったのか?」
「んー? どうでもいいだろ、それより飯だー」
 はいはい、と答えてから、ヨウコはふとサチコに尋ねてみた。
「サチコ」
「飯」
「殴るぞ。――サチコ、お前、このシリーズ読んでただろ?」
『謎は解かれるべきだし、不条理は理解されるべきだ』。
 「助けて」シリーズの探偵役の決め台詞である。あの時は気付かなかったが、本を読み進めているうちにその科白に出くわした。
「ん? さあ?」
 そして、ヨウコが深夜にも音が聞こえたと伝えた時のサチコの反応。
 ――ふーん。ご苦労な話だな。
 悪戯をしている者に対する皮肉かと最初は思ったが、今となっては全く別の意味に思える。
 即ち、『深夜まで仕事だなんて、作家先生もご苦労だな』と。
「お前――」
 ――最初から、全部分かってたんじゃないのか? という言葉を、ヨウコは飲み込んだ。
 意味がないことだと思ったからだ。
「アロエいい加減手入れしろよ」
 ベランダにある鉢植えを眺めながらサチコが言った。
 そのうちな、とヨウコは答えた。


      Youko in the Southern Room ~Braille Knocker~ is QED.





あとがき


 というわけで「南向きのヨウコの部屋で ~小うるさい日常~」なのでした。いかがだったでしょうか。
 えーこれは「南向きのヨウコの部屋で」の番外編なのですが、経緯が少し特殊でして。当時創作をやっていた数少ない友人の一人とお互いのキャラを自作に登場させる、みたいな流れで書いた……はず。もうお分かりかと思いますが、緋琴月准教授がそのキャラなのです(ちなみに当時は助教授と書いていたのですが時代に合わせて修されました)。冒頭の文はその方の作品から引用させて頂きました。癸さん、掲載許可もいただきありがとうございます。緋琴月先生は探偵キャラなので今作もなんだか推理ものっぽくしたわけですな。
 それでまあ、書いた時期がこれまた古いわけです。南向きのヨウコの部屋でとほぼ同時期なのでおよそ16~7年前の太古の昔。当然スマートフォンなどという文明の利器は未だ存在せず、故にガラケーなどという呼び方もなくて、ケータイこそが最先端技術のカタマリで、光回線じゃなくてADSLで、WindowsはXPで、PS2が現役で、エヴァが17年後にやっと完結するとか想像の埒外で、しかし一家に一台PCが普及していた、そんな時代だったような気がします。そしてそんな時代なので、家にPCがないヨウコたちはネカフェにいく訳ですね。時代にそぐわない描写はアーカイブ化する時に手直ししたのですが、さすがにここはストーリーに関わる部分だったのでそのまま掲載することに。だからツッコミをいれないでください……。
 しかし推理ものの表面だけなぞってはいるけれど、本当にそれだけですね。僕にミステリーは無理ですわ。というか推理してねえ。
 作中でなにやら緋琴月先生がサチコへの電話に意味ありげな反応を返していますが、本編を読んだ人ならなんとなく理由は分かるのではないでしょうか。
 これも読んでいると当時はまっていたものの影響がもろに出ていて痒くなってきました。メフィスト賞作品とか京極夏彦とか森博嗣とかそこらへんのやつです。
 話は変わりますが、僕はWordを使って縦書きで小説を書いているのですよ。で、ラップ音は縦書きで読んだ時に意味が通るようにしてあったので、横書きに直すのが地味にとてもめんどくさかったです。あと、多分点字をマスターしても耳で聞いただけで意味を読み取るのは無理だと思います。あくまでお話ということでご容赦ください。
 ヨウコとサチコのお話はこの二作しかないのですが、十数年ぶりに読み返すとなんか未だに好きだなこいつら。掌編や短編で何か彼女たちの動向を書いてみようかなという気が湧いてきました。いつになるかはわかりませんが……。
 というわけで「南向きのヨウコの部屋で ~小うるさい日常~」なのでした。それではまた何かの作品のあとがきでお会いしましょう。ここまでお読みくださりありがとうございました。アウフヴィーダーゼーエン。

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