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電信柱とジキタリス 前編


      0a

 これは実際に起きた、悲しいお話だ。
 これを君に聞かせるのは、僕としてはとても心苦しいし、少し長い。
 君も同じような気分になるだろう。あるいは飽きてしまうかも。
      それでも構わない。
      そのようなことは、話を聞いてから判断するわ。
      それに、私には聞く権利と、義務がある。
 そうか、ならば仕方ない。
 君に語って聞かせよう。
 ある、電信柱のお話を。

      1

 ――彼は、恋する電信柱だった。

 彼は電信柱だから、一日中そこに立っている。雨の日も、風の日も。立っていることが仕事なのだ。毎日ただ立っている彼の前を、多くの人々が通り過ぎる。若い人、老いた人、急いでいる人、急いでない人、男の人、女の人。色々な人がいた。
 彼女も、そのうちの一人だった。

 彼女は変わった女の子だった。電信柱である彼の前を、大抵の人は素通りする。一部の人は繁々と眺める。さらに一部の人は彼に触れてみたりする。だが、彼女は、
「こんにちは、電信柱さん」
 話しかけてきた。
「…………」
 彼は電信柱だから、もちろん返事はできない。けれど彼女は構わず話し続けた。
「暑くないですか? 毎日大変ですね」
 周囲の人が眉をひそめる。当たり前だ。電信柱に話しかける女の子なんて、普通じゃない。
 彼もまたそう思った。
「はい、差し入れです」
 彼女は良く冷えた清涼飲料水が入ったペットボトルを彼の足元に置くと、またね、と手を振ってその場を去った。
 暑い夏だったから彼の体はとても熱くなっていて、彼はそれを飲みたかったけれど、電信柱なので飲めなかった。彼は立ち続けた。
 通り過ぎる人々は、彼の足元にある汗をかいたペットボトルを見て首を捻っていた。子供が取ろうとして手を伸ばしたが、親に酷く怒られた。子供の泣き声が辺りに響く。
 何処かであの子を見たことがある気がする。
 彼はそう思いながら立ち続けた。

 次の日、
「こんにちは、電信柱さん。今日も暑いですね」
 また女の子がやって来た。周囲の人々はやっぱり眉をひそめていたが、彼女はちっとも気にしていないようだった。
「差し入れ、飲んでくれましたか?」
 そう言って彼女がきょろきょろと辺りを見回す。
「…………」
 あのペットボトルは、昨日小学生達がふざけて持っていってしまったのだ。彼女がそれを知ったら残念がるだろう。でも、彼女がそれを知ることはない。彼は電信柱だから、言葉を伝えることはできないのだ。
「――ま、いっか。はい、今日の分です」
 彼女はそう言って、昨日と同じ銘柄の、良く冷えた清涼飲料水が入ったペットボトルを彼の足元に置くと、
「がんばってくださいね。バイバイ」
 手を振って去って行った。
 変な子だ。彼はそう思って、彼女が人ごみに消えるのを見送った。周囲の人たちはひそひそと何かを話し合っていたが、やがて歩いて行ってしまった。
 ペットボトルの透き通った影が、道路に落ちる。入道雲の巨影がそれを覆う。何処かで、蝉が鳴いていた。

 その日の夕方。
 太陽がビルの陰に隠れ、辺りを薄闇がゆっくりと呑み込んでいく。彼が立っているのは駅前で、この時間が一番活気づく。彼は騒がしいのは苦手だったが、こうやって少し離れた場所からざわめく人々を眺めるのは好きだった。
 きれいな、とてもきれいな夕暮れだった。夏になってから、彼は夕暮れが来る度にそう思う。ビル風が火照った体に心地良い。彼は昼と全く変わらない格好でまだ立っていた。
 そんな彼に、彼女が話しかけた。
「こんにちは、電信柱さん」
 女の子は、元気がないようだった。周囲にいた人は露骨に嫌な顔をして、彼と彼女の周りから離れていく。彼も、少し迷惑に思った。電信柱には電信柱なりの仕事があるのだ。邪魔されて嬉しいはずがない(それがただ立っているだけだとしても、それでもだ)。
「隣、座っていいですか?」
 女の子が訊ねる。彼は答えない。女の子が隣に腰かける。
 暫らくのあいだ、女の子は何も喋らなかった。雑踏を、彼と並んでただ眺めていた。
「電信柱さん、毎日、辛くないですか」
 女の子がぽつりと訊ねた。彼は答えない。彼女は構わず話し続ける。
「私は、毎日がとても辛い。何故でしょうか? 私は毎日学校に行きます。毎日クラスの人たちと一緒に笑います。でも、辛いんです。何故でしょうか?」
「…………」
「周りの人に聞いてみたこともあります。毎日が辛くないのかって。すると、みんな答えます。辛いよって。ある人は友達関係に疲れていました。別の人は親との関係に疲れていました。他の人は、生きることは辛いことなんだって言いました。そうなのでしょうか? 私には、良く分かりません。私がそう言うと、みんな、では何故あなたは辛いの? と逆に聞いてきます。分からないから聞いているのに。でも、そういう時、私は『分からない』と繰り返さずに、ただ笑ってごまかすんです。何故でしょうね?」
 遠くでひぐらしが鳴き始めた。
 車と人は、絶え間なく、自信を持って道を行き来する。
「おかしなこと言っちゃいましたね、私」
 彼女が立ち上がった。ぱっぱっとスカートについたほこりを払う。
「ごめんなさい、電信柱さん。お仕事の邪魔をして」
 ぺこりとお辞儀をして、夕陽を背にし、
「ありがとうございました、電信柱さん。お話を聞いてくれて」
 頑張って下さいね。そう言って、人ごみの中に消えていった。

 そして夜が来た。
 昼の間アスファルトとコンクリートにこもった熱が夜の気温を底上げしている。蒸し暑い。辺りの人通りは絶えていた。夕方の喧燥からは想像できないくらいに、しん、としている。猫の子一匹通らない。聞こえてくるのは、虫の声くらい。
 暑さと、その人通りの少なさは彼にとってありがたかった。凍えず、静かに眠れるからだ。
 彼は、夕方の彼女の言葉の意味を考えていた。
 毎日が辛い、と彼女は言った。そしてその理由が分からないとも。彼には彼女の言葉の意味が分かるような気がした。生きることは辛くない。でも毎日がとても辛い。矛盾しているように聞こえるが、そもそも人の思いなど矛盾しっぱなしで、整合性なんて微塵もないものなのだ。そんなこと、電信柱をやっている彼にだって分かる。そこに意味を見出しても意味がないのだろうし、何よりそんなことをしてはいけないように彼には思えた。彼女もそれを分かっているはずだ。分かっているからこそ、人に言わずにはおけないのかも知れなかった。
 だって、そんな考えは普通の人とは違うから。それはとても寂しいことだから。
 彼は長いとも短いとも取れる年月のあいだ、電信柱であり続けてきた。それを辛いと思ったことはない。でも、時々、遣る瀬なさに胸が張り裂けそうになることもある。そんな時も彼はそれをおくびにも出さずに立ち続けた。
ひょっとして、彼女もそうなのだろうか。今までの人生をふと振り返って、行き場のない絶望に襲われるのだろうか。だから、彼の想いを見抜き、彼に話しかけてきたのだろうか。
 語っている最中の、きれいな夕陽に照らされた彼女の横顔を思い出す。どこか悲しげで、でも決して投げ遣りではなかった不思議な表情。
 彼は、彼女の話に返事をしてやるべきだったのだろうか。
 明日から、彼女は来なくなるのだろうか。
 考えても無駄なことだったし、何だか厭な――とても厭なことも併せて思い出しそうになったので、彼は目を閉じた。やがて彼は眠りに落ちた。

 翌日、彼女は彼のところにやっぱりやって来た。昨日の夕方と違って、かなり元気な様子だった。手に持つペットボトルを振り回し、
「こんにちは、電信柱さん。今日も暑いですね」
 何だかお馴染みになりつつある挨拶を勢いよくして、にっこりと笑った。電信柱の周りに居た人たちはうんざりした顔で女の子を見遣った。彼も仕事の邪魔をまたされて結構うんざりしていたが、あまり腹は立たなかった。
 何故だろう、と彼は女の子の笑顔を見つめながら思った。
「うん、暑いです。暑いんで、ちょっとこれ飲ませてもらいますね?」
 女の子はそう言うと、自分で持って来た清涼飲料水のキャップを開け、こくこくと喉を鳴らしておいしそうに飲んだ。半分くらいまで飲んだところで止め、キャップを閉めて、彼の足元に置いた。
「っはあ。おいしいです。電信柱さんもどうですか?」
 もちろん、彼は電信柱なのだから飲める訳がない。女の子も冗談で言ったのだろう。くすくす笑いながら、彼の隣に腰を下ろした。通行人が微妙な温度の視線を送ったが、少女も、そしてもはや彼も、そのことをいちいち気に留めたりしなかった。
「楽しいですね、電信柱さん」
 女の子が汗を垂らしながら、言った。
「…………」
「電信柱さんは、楽しくありませんか?」
「…………」
「私は、楽しいです。何ででしょうね?」
 彼女は、一体、何者なのだろう。
 夏の苛烈な日差しの下、彼は地面から生えたように立っている。
「波があるんです。楽しい時と、辛い時の。昼間は大抵楽しくて、夕方は大体辛い。そして、夜は――」
 女の子はそこで言葉に詰まった。彼は密かに続きを待っていたが、彼女は続きを話さなかった。何だか、苦しそうな顔をして、胸元を押さえている。
 彼女は、一体、何者なのだろう?

      0b

 ここでお話を止めてしまうことも僕にはできる。
 電信柱と不思議な女の子の上に起こるのは、悲劇以外ありえない。
 君はどうにも辛そうだ。もう、ここまでにしたらどう?
      いいえ、どうか止めないで。
      これから起こることを話して。
      言ったでしょう、私には聞く権利と義務がある。
 いいだろう。
 僕は君にかく語る。
 彼と彼女の記憶と会話を。

      

 翌日休んだだけで、それから毎日、彼女は彼のもとにやって来た。口許に笑み。額には汗。手には、例のペットボトルを携えて。
「こんにちは、電信柱さん。今日は曇ってて涼しいですね。じゃん。今日は、お弁当を作ってきました」
 電信柱の隣に座って、手作りの、いかにも女の子らしい小奇麗な弁当をつつく彼女は、周囲の風景の中異彩を放っていた。通報されたり、人から文句を言われないのが不思議なくらいだ。だが、にこにこしながらおいしそうに卵焼きを口に運ぶ女の子の姿を見ると、何だかそっとしておきたくなるのも事実だった。
 あのお姉ちゃんえんそくしてるよー。子供の声が聞こえ、続いて咎める親の声が聞こえ、薄曇りで涼しいのにもかかわらず元気に鳴いている蝉の声が聞こえた。さらに隣からは女の子の鼻歌まで聞こえてくる。
「…………」
 だがそれでも、彼は黙って立ち続けた。それが仕事なのだ。

 それから二、三日経ったある日、
「あー! 電信柱さん、やっぱり飲んでくれなかったんですね」
 彼の足元に置かれているペットボトルを見つけて、女の子が怒ったような口調で言った。彼女が持って来た差し入れが、昨日と変わらず置いてあった。ちなみに、一昨日の分やその前の分も、手付かずのまま猫除けのバリケードのようにそこにあった。
「酷いです」
 とん、と彼を軽く押す彼女。もちろん、軽く押されたくらいで電信柱である彼が倒れる訳はないのだが、周囲から非難する声が上がった。だが、そんな声を無視して彼女は彼の隣に座る。周囲の人は、諦めたような溜め息を吐き、散って行った。
「毒でも入ってると思ってるんですか?」
 刺のある彼女の声を聞きながら、何故そんなに怒っているんだろう、と彼は不思議に思った。

 雨が降ったある日は、彼女は傘を二本持ってやって来た。
「びしょ濡れですね。風邪、ひきますよ」
 女の子は本気で心配した口調でそう言った。近くを通りかかった数人の女子高生が、ひそひそ声で何か言った。
「…………」
「電信柱さん、汚れてますね」
 彼女は彼に傘を差しながら、ハンカチを取り出して彼の顔や手足を拭いた。ハンカチはすぐに真っ黒に汚れた。
「今日も差し入れをもって来たんですけれど……」
 彼女はまるで魔法のようにいつものペットボトルを取り出す。が、いつものように彼の足元に置いたりせずに、また仕舞い込んだ。
「…………」
 彼は少し動揺した。いつもは迷惑に思っている『差し入れ』だが、もらえないと少し寂しい。
「電信柱さんって、私の差し入れをいっつも猫避けにしちゃうから」
「…………」
 悪戯っぽく女の子は笑い、そして、昼過ぎに雨が上がるまで、彼と共に立ち続けた。

 また別の日の夕方、
「えへへ。びっくりしましたか?」
 女の子は、何故か花束を持ってやって来た。そして、いつもと同じように彼の隣に座り、
「私、前に少し嘘をつきました」
 女の子が黄昏時にいつも見せる、しかし未だに何と表現していいのか分からない例の表情で言った。夕陽を受けて紅く染まるその顔の中には、様々な感情が渦巻いていた。
 嘘? 彼女は、どんな嘘をついたのだろう?
「何故生きるのが辛いのか? その理由を、私は知ってるんです」
 彼は、不思議な衝撃を受けた。生きる、その辛さの原因を、彼女は知っている。
 人はそんなものを知ってしまった上で、なおも生き続けれるものなのか。
「お姉ちゃんがいました。私にはお父さんとお母さんがいなかったので、お姉ちゃんはその代わりでもありました」
 彼女は訥々と語り出した。
「でも、今はいません。三年前の夏に、お姉ちゃんは遠くに行っちゃったんです」
 そう言ってから、女の子は手に持つ花束を掲げて見せた。花束は一種類でできていた。紫色の袋のような形をした花が、長い茎に鈴生りについている。彼はその花に見覚えがあった。
「この花は、お姉ちゃんの好きだったものなんです。狐の手袋、っていうんですよ。可愛いでしょう?」
「…………」
 彼は語るべき言葉を持たなかった。電信柱だから、とかそういう理由でなく、純粋に、何と声をかけてよいのか分からなかったのだ。
「あ、勘違いしないで下さいね。お姉ちゃんは生きてます」
「…………」
 女の子はくすくすと笑った。そして、さらりとこうつけ加えた。
「お姉ちゃんは、お姉ちゃん自身の心の中の、どこか遠くに自分をやっちゃったんです」
 口調に気負いがない分、逆にその言葉はとても残酷に響いた。
「お姉ちゃんには、夫がいました」
 電信柱である彼の心を、その言葉が打った。
「素敵な、とても素敵な旦那さんでした。お姉ちゃんとすっごくお似合いで、私の自慢のお義兄さんでした」
 これ以上聞きたくない気がする。
「でも、居なくなっちゃいました。遠くへ行っちゃったんです。ジョーハツってやつですね」
 これ以上聞きたくない気がする。見覚えのある女の子。
「そして、お義兄さんもお姉ちゃんも、それ以来帰って来ていません」
 見覚えのある女の子。狐の手袋。
「四年前のお姉ちゃんの誕生日のことでした。その上その日から夏休みで、私はとても楽しい気分で昼間を過ごしました。
 夕方、家に帰ると静かでした。テーブルの上には、ケーキと料理と狐の手袋の花束がありました。お姉ちゃんが言いました。『あの人が帰ってくるまで、食べるのは待ちましょうね』。
 私たちは待ちました。
 夜になって、お姉ちゃんがお義兄さんの会社に電話をしました。
 それから更に待ちました。
 お姉ちゃんが警察に電話をしました。
 私たちはずっと待ちました。
 私が先に待つのを諦めても、お姉ちゃんは諦めませんでした。そして、お姉ちゃんは今でも待っています。
 だから私は、昼間が好きで、夕方は好きだったり嫌いだったりで、夜が大嫌いなんです」
 狐の手袋。別名はジキタリス。
「生きるってことは、待つことだと思うんです。日が暮れるのを待ったり、テストの結果を待ったり、死ぬのを待ったり――そして愛している、でも帰って来ない人を待ったり。それって、あんまりじゃないですか」
 ジキタリス。花言葉は、胸の思い、不誠実、きみはただ美しいだけ。
「……ごめんなさい、電信柱さん。変なお話をして。これから、私は駅前の病院に、お姉ちゃんのお見舞いに行きます。今日は、これでさようなら」
女の子は彼に別れを告げると、夕暮れの人込みの中にあっという間に消え去った。
 彼はそれを見送った。彼は立つことしかできない。それしか能がない。自分から動こうとしない。
 愛しい女の子を、追うことも出来ないのだ。

      0c

 このお話も、もうすぐ終わる。
 ここから先は、事実だけを語る。
 話は短くなるけれど、長くなるよりずっといい。
      彼と彼女に何かがあったのね。それもとても酷い何かが。
      私も過去酷い事を経験したけれど、
      きっとそれ以上の何かなのでしょう。
      教えて。彼と彼女に何があったのか。
 事実を語るのは容易い。
 だが事件の全ての事象を語るのは、人間には不可能だ。
 だから、僕は限定的に話す。
 彼の選択と、彼女が望んだ結末を。

      3

 彼はそこから居なくなった。
 女の子は駅前辺りの人に、彼がどこに行ってしまったのかを訊いて回った。
 皆、口を揃えて知らないと言った。
 訊かれて初めて、「そう言えば、電信柱がいなくなってるね」と、たった今気付いたように言った。
 彼と一緒に、清涼飲料水のペットボトルの群れも消えていた。
「ああ、あのごみは片付けてしまったよ。事故があったみたいで縁起が悪いからね」と駅員が言った。
 本当の電信柱の側に置いてあったそれらと共に、ニセモノの電信柱は消えてしまった。
 彼女は毎日そこに通った。朝は五時前から、夜は日付けが変わるまで。夏休み前の学校も、姉の病院に行くのもサボった。そして電信柱のように立ち続けた。
 彼女は彼を待ち続けた。
 ある日の朝、彼女がいつものようにやって来ると、彼の死体と、空っぽの清涼飲料水のペットボトルが一個転がっていた。傍らにはジキタリスの花束もあった。
 しばらくじっと立ち尽くしていた彼女は、やがて静かに微笑むと花束を持ち上げ、花の葉を千切って食べ始めた。
 やがて強く痙攣し、彼女は重なるようにして彼の上に倒れた。
 そして、彼女も死んだ。

続く

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