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VAN HALENから「AIと生き様」について考える

VAN HALEN が好きです。Eddy Van Halenの超絶ギタープレイに中学生の頃からやられていました。さて、そんなVAN HALENを巡ってこんなニュースが。

「ギター1本、5億円かよ」と多くの人は思うでしょう。それは、まあまともな感覚ではあります。ギターが欲しいだけならこれでいいわけですし。

でも「これってAIではできないことだな」とも思いました。

早晩、AIはVAN HALEN的な楽曲を作曲し、腕・指ロボットを操作してエディよりも巧みにギターを演奏できるようになるでしょう。まあ普通はそんなアホなことしないでギターの音をシミュレートしてそのまま出力するだろうとは思いますが、技術的な可能性としてはすぐにもできそうです。

でも、AIの演奏に使われたギターに、人は5億円も払わないですよね。何なら「それ、無料?課金しないとダメ?」みたいなことを言われるのがおちでしょう。

なぜエディのギターに5億円の値がつくのか。ギターそのものに5億円の価値があるからではありません。エディにまつわるストーリーに価値があるからです。そのストーリーを体現する存在としてのギターに価値を認めているわけです。

或いは。

チャールズ・ディッケンズの生家がイギリスのポーツマスにあって、ポーツマス博物館の一部として大切に保存されているようです。(イギリスってこういうの大切にしますよね。)

AIが小説を書くことは可能です。その小説に人が感動することも十分あり得るでしょう。ディッケンズの『クリスマス・キャロル』なんかよりも万人受けする小説を書くことが可能になる日も近いように思います。

しかし、その小説を出力させる時に使ったPCに人は価値を認めないでしょう。後世まで大切に取っておこうなんて思わずに「PCの廃棄処分ってどうするんだっけ」と悩むくらいではないでしょうか。

なぜディッケンズの生家は大切に保存されるのでしょうか。家そのものに価値があるからではないでしょう。ディッケンズにまつわるストーリーに価値があるからです。

AIが人を感動させる何かをアウトプットすることは出来るでしょう。でも、AIにストーリーを作ることはできません。なぜなら、ここで言っているストーリーは、言い換えるなら人の生き様そのものだからです。そこには身体性、五感、信念といった、AIが「模倣はできても創造はできないもの」が含まれています。

数年前の紅白で披露されたAI美空ひばりに我々が感じた違和感の根っこは「技術は素晴らしい。でも、そこに美空ひばりの生き様はない」ということだったのではないでしょうか。

AIを上手に使って生産性を上げていくことはこれからの時代、絶対に必要です。そういうAI時代においては「模倣はできても創造はできないもの」である生き様を大切にすべきでしょう。平たく言えば、結局は「どう善く生きるか」が問われる時代を我々は改めて迎えているのです。(というようなことを考えているからトップ画像の書物を引っ張り出して読み直したりしているわけですね。)

では、「善く生きる」とはどういうことか? これが人によって違うから人間社会はややこしいわけですね。話を最初に戻せば、エディのギターに5億円出すことは、ある人にとっては「妥当だ」と思われるでしょうし、ある人にとっては「気違い沙汰だ」となるでしょう。

一方に尖ったことを言う人がいて、他方にそれを理解できないという人がいる。でも、それはそれとして結構仲良くやっている。そんな社会ならいいな、と思うのですが。

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