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「白椿」夢野久作

この文章は、近代小説の原文をちょっとだけ簡単に直したものです。「やさしい日本語」ほど簡約かんやくせず、原文をなるべく残したままで、長い文を区切ったり、語順を入れ替えたりして読みやすくしています。


 ちえ子さんは可愛らしいきれいな子でした。でも、勉強がきらいで遊んでばかりいるので、学校を何回も落第らくだいしました。そして、お父さんやお母さんにしかられるたびに、「ああ、いやだ嫌だ。勉強しないで成績が良くなる方法は無いかなあ」と、そればかり考えていました。
 ある日、算数を勉強していましたが、どうしてもわからない上に眠くてたまりません。大きなあくびを一つしてお庭に出てみました。お庭には白い椿つばきが一つだけつぼみを開いていました。ちえ子さんはそれを見て、「ああ、こんな花になれたらいいなあ。学校にもどこにも行かずに、花が咲いて人から可愛がられる。ああ、花になりたい」と思いました。そして、その花に顔を近づけて香りをいでみました。
 その白椿しろつばきの香りの良さは、目もくらむようでした。思わずむせ返って、
「ハックション」
 と大きなくしゃみを一つして、フッと目を開きました。すると、どうでしょう。ちえ子さんはいつの間にか白い椿の花になっていました。目の前にはちえ子さんにそっくりの女の子が立っていて、こちらを見上げています。
 ちえ子さんはびっくりしましたが、どうする事も出来ませんでした。ただ呆然として、その女の子を見ていました。その女の子は花になったちえ子さんを見ながら、
「まあ、なんて美しい花でしょう。そしてほんとうにいい香りがする。これを一輪ざしに挿して勉強したいな。お母さんに聞いて来ましょう」
 と言いながらバタバタと走って行きました。
 しばらくすると、ちえ子さんのお母さんが花鋏はなばさみを持ってお庭に降りて来ました。
「まあ、お前が勉強をするなんて珍しいねえ。お前が勉強さえしてくれるのなら、椿の花を切ることくらい何でもありませんよ」
 と言いながら、ちえ子さんの白椿をパチンとはさみで切って、一輪挿いちりんざしにさして、ちえ子さんの机の上に置きました。
 ちえ子さんが、机のすみから見ていると、女の子はうれしそうに可愛らしい目でこちらを見ていましたが、やがて算数のノートを出して勉強を始めました。
 ちえ子さんの白椿は、真っ赤になりたいくらいきまりが悪くなりました。算数のノートには間違った答えばかりです。ところどころにはつまらない絵がいてあります。女の子はそれを消しゴムできれいに消して、間違った答えをみんな直して、明日の宿題まで終わらせてしまいました。それを見ているうちにちえ子さんは、算数のしかたがだんだんわかって来て面白くてたまらず、自分でやってみたくなりました。しかし、今は花になっているので何もできません。
 そのうちに女の子は算数を終わらせました。そして、教科書を開いて、本に小さく鉛筆えんぴつで書いてあるふり仮名をみんな消してしまいました。復習と明日の予習が終わると、筆入ふでいれやカバンをきれいに掃除して、鉛筆を上手にけずって、時間割じかんわりに合わせた本やノートと一緒に入れて机の上に正しく置きました。それから机のひきだしをあけてキチンと片づけて、押し込んであったいたずら書きの紙くずや糸くずをきれいにのばしました。紙はノートに作り直し、糸は糸巻きに巻きました。その間のちえ子さんのきまりのわるさ! 消えてしまいたい位でした。
 女の子はそれから、台所で働いているお母さんのところへ走って行って、
「お母さん、お手伝いさせてちょうだい」
 と言いました。
 お母さんはしばらくだまって女の子の顔を見ていましたが、れたままの手でいきなりしっかりと女の子を抱きしめて、
「まあ、お前はどうしてそんなによい子になったの」
 と言いながら、涙をハラハラと流しました。
 白椿になったちえ子さんは身を震わせてこの様子を見ていました。ちえ子さんはお母さんからこんなふうに可愛がられた事は今まで一度も無かったのです。あんまりうらやましくて情けなくて口惜くちおしくて、思わずホロホロと水晶すいしょうのようなつゆを机の上に落としました。
 それからこの女の子がする事は、何もかもちえ子さんを感心させました。
 遊びにさそいに来る悪いお友達はみんな、お母さんに頼んで断ってもらい、良いお友達と遊ぶようにしました。
「ちえ子の大馬鹿ばかやい。ちえ子の知恵無し落第坊主ぼうず、一年二度ずつエンヤラヤ、学校出るのに……ツーツータアカアセ」
 と悪い男の生徒がからかっても、家の中から笑っていました。
 そのほか勉強の合間には編み物をお母さんから習いました。夜はお祖父さまの肩をもみました。お母さんのお使い、お父さんの頼みにも、ハイと快く返事をして働きました。そうして自分の事は何一つお家の人に迷惑めいわくをかけませんでした。
 お家の人はみんなおどろいて感心をしてめちぎって、いろいろなものを買ってくれました。しかし女の子はそれを大切にしまって、今までちえ子さんが使い古したものばかり使っていました。
 けれどもお家の人よりも何よりも驚いたのは学校の先生でした。今までは何を聞いてもうつむいてばかりいたちえ子さんが、今度は何を聞いてもすっかり勉強しておぼえていて、時々ときどき、先生も困るくらいよい質問をします。
 そればかりでなく、今まで運動場で遊んでいても、すぐに泣いたり、おこったり、すねたり、よけいなにくまれ口をきいたりして嫌われていたちえ子さんが、急に親切にやさしくなって、どんな遊びでもいやがらずに、とても元気よく楽しく仲よく遊びます。だから、友達の出来る事出来る事。今まで寄り付かなかったよいお友達が、みんな遊びたがってお家にまで来るようになりました。
 女の子はいつもよいお友達とおとなしく遊んで、おとなしく勉強していました。
 来るお友達はみんな、ちえ子さんの机の上の一輪ざしに生けてある白椿の花を褒めました。その時女の子はいつもこう答えました。
「あたしはこの白椿のようになりたいといつも思っています」
「ほんとにね」
 と友達は皆、女の子のきよい心に感心をしてため息をつきました。
 白椿のちえ子さんは日増しにさみしく悲しくなって来ました。「あたしのようなわるい子はこのまま散ってしまって、あの女の子があたしの代わりになっている方がみんなの幸せになるかもしれない。どうぞ神様、あたしの代わりにあの女の子が幸せでいますように、そしていつまでもかわらずにいますように」と心から祈って、涙をホロホロと流しました。
 そのうちにだんだん気が遠くなって、ガックリとうなだれてしまいました。

       ×          ×          ×

「まあちえ子さん、大変じゃないの。全ての科目でいちばん良い評価を取っているのに、どうして今までみたいに成績をかくすのですか。起きなさいってば、ちえ子さん。そんなに勉強ばかりして体にさわりますよ」
 とお母さんの声がします。フッと目をあけてみると、ちえ子さんは算数の本を開いてその上でうたた寝をしていたのでした。
 目の前の机の上の一輪挿しには椿の枝と葉だけがさっていて、花はしおれたままうつせに落ちていました。


原文:新美南吉「明日」
青空文庫:https://www.aozora.gr.jp/cards/000096/files/2301_13524.html

ちょっぴりやさしい日本語訳:じんけいこ
朗読音声:https://youtu.be/FERractcOhc

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