見出し画像

なぜこのような「愚劣な」教科書検定が平然と行われるのか?「高校教科書 検定で修正意見 『政府検定に基づかず』14件」

 文部科学省の検定結果が29日公表された。高校2、3年生が2023年度から学ぶ教科書だ。その内容については、3月30日付の朝日新聞より引用するが、このような愚行が行われても、大きな批判の動きが起きないのはなぜかということだ。それについては、内田樹氏の『コロナ後の世界』から引用して、説明としたい。長い引用になるが、御一読、いただければ幸いである。

教科書 政府見解に沿い修正

 文部科学省が29日公表した高校教科書への検定意見では、大戦中の朝鮮半島からの労働者を巡り、昨年4月の閣議決定に沿った記述を求める指摘が相次いだ。新たに出た政府見解を実際に書かせたことで、今後国の関与がさらに強まることを懸念する声もある。
「多数の朝鮮人を強制連行した」 「朝鮮人を工場や炭鉱などに連行して」今回の検定では、こうした表現に「政府の統一的な見解に基づいた記述がされていない」との意見がついた。同様の指摘は日本史探究と世界史探究、政治・経済の3科目全20点中、6社12点の計14力所に上った。
 政府は昨年4月、戦時中に朝鮮半島の人々を日本で働かせたことを「強制連行」 「連行」と表現するのは「適切ではない」とする答弁書を閣議決定した。日本維新の会の馬場伸幸衆院議員の質問主意書に答えたものだ。文科省は今回、これに沿った記述を求めた。
 意見に対し、教科書会社はいずれも修正に応じた。実教出版の日本史探究では「強制連行」という表現を「強制的に動員」と直した。山川出版社は「朝鮮人や占領下の中国人も、日本に連行されて」との記述のうち、朝鮮人について「徴用」と言い換えた。
 文科省の担当者は修正を求めた理由について、「朝鮮半島からの人々の移入の経緯は様々で、ひとくくりに強制連行と表現するのは政府見解がある場合に書くよう求める検定基準だ。
 指摘に対し、元の記述を変えるのではなく、追記で対応する社もあった。第一学習社は日本史探究の「多数の朝鮮人を強制連行した」との部分に検定意見がつき、同ページの欄外に、昨年4月の閣議決定を紹介しつつ「実質的には強制連行にあたる事例も多かったとする研究もある」との注釈を新たに追加。文科省によると、政府見解が明示されていればその趣旨と異なる表現があっても検定上は問題ないという。
 また、「従軍慰安婦」との用語について「単に『慰安婦』という用語を用いることが適切」とした閣議決定をもとにした指摘も1ヵ所あった。東京書籍の政治・経済では1993年の河野談話を引用し「いわゆる従軍慰安婦」とした部分に意見がついた。同社は引用を残したまま閣議決定を追記することで対応した。
 地理歴史と公民の教科書に政府見解を記述するという基準は、安倍晋三政権下の2014年1月、当時の文科相が検定基準に新たに追加。民間の教科書会社が書いた内容が妥当かをチェックしていた検定が、具体的な事柄を書かせる検定へと質的に大きく転換した。
 以来、この基準によって14年度検定で4件、15年度に1件、16年度に3件、20年度に1件の私的があり、いずれも修正さえた。8回目の検定となる今回、閣議決定の出た昨年4月が検定申請の時期に重なって教科書会社側が申請前に修正しにくかったこともあり、過去最多になった。
 ある出版社の編集者は、政権の意向に沿った記述が増えていくことを懸念する。「今回のようなことが前例になり、今後、同じようなことが起きていくのかな、とも感じる」としつつ、こう話す。「合格するため、ともかく言われた通りに直さざるを得ない」(高浜行人、上野創、石平道典)

韓国外交省 「深い遺憾」

 韓国外交省は29日、日本の文部科学省が同日に公表した高校教科書の検定結果をめぐり、「自国中心の歴史観によって過去の歴史的事実を歪曲する教科書を検定通過させたことに、深い遺憾を表明する」として、是正を求める報道官声明を出した。(ソウル)

「酔生夢死の国で」  内田樹著 『コロナ後の世界』より

 私たちが出発すべき足場はわが国の学術的発信力がある時期から急速に低下し続けているという現実にある。これは政府の教育政策の「失敗」だと私たちは考えるが、おそらくそれがボタンの掛け違えなのである。これは教育政策の「成功」なのである。私たちの国の政府はこれまで学術的発信力が低下することをめざしてさまざまな制度改革に取り組んできたのである。
 そんなバカな話があるものかと憤る人が多いと思うが、学術的発信力の向上よりもさらに上位の政治的価値があり、今回の任命拒否を含むすべての制度改革はその「上位の政治的価値」に奉仕するためのものであると考えると、見えなかった話が少し見えてくる。
 さまざまな国際機関の報告する数値が示すように、わが国の学術的発信力は過去四半世紀ひたすら低下し続けている。それは文科省自身が「我が国の国際的な地位の趨勢は低下していると言わざるをえない」と2018年の科学技術白書で認めている通りである。
 国別の学術的発信力の最もシンプルな指標である学術論文刊行数で、日本は久しくアメリカに続いて世界2位を維持していたが、21世紀に入ってから先進国で唯一論文数を減らし、最新データ(2021年)では論文数4位、注目論文数は10位にまで転落した。人目当たり論文数ではすで回工要先進国中最下位の16位。過去の科学技術関連予算の伸び率は2000年を100とした場合、2019年比較で中国が18・6倍、韓国が5・6倍であるのに比して日本はわずか1・3倍(『科学技術指標2021』科学技術・学術政策研究所)。博士課程進学者数は2000年度を100とすると2019年度は88。よく引かれる数値である学校教育への公的支出の対GDP比では先進国中最下位が久しく定位置になっている。
 これらすべての指標が日本の学術的生産力の劇的な低下を示している。先進国の中で日本だけが学術的な力においてひたすら衰退傾向にある。となれば、私たちが向き合うべき最初の問いは「なぜここまで力が落ちたのか?」である。第二の問いである「それならばどうすれば研究者たちの知的創成力を再び高めることができるのか?」は私たち学者にとっては喫緊の問いだが、日本政府にとってはそうではない。その事実を受け止めよう。
 日本政府は研究者たちの知的創成力を再び高めることに何の関心もない。そのことは、日本人ノーベル賞受賞者たちが、繰り返し「このままではあと20年後30年後にはノーベル賞受賞者は日本からは出なくなる」と警鐘を乱打しても、政府が指一本動かす気配がないことから知れる。
 日本における研究活動の拠点はむろん大学である。そして、1990年代から、日本政府はさまざまな制度改革を大学に要求してきた。そして、ご案内の通り、91年の設置基準の大綱化から、2004年の独立行政法人化を経て、2014年の学校教育法改定にいたる文字通り無数の制度改革を通じて、日本の大学の学術的発信力はひたすら低下し続けて来た。
 論理的に考えることができる人間なら、これらの制度改革はことごとく「失敗したのだ」と総括するだろう。事実、これらの制度改革が要求してきた終わりなき会議や膨人な書類作成のために研究者が疲弊し果て、研究教育に向けるべき時間もエネルギーも失ったということは大学人なら誰でも知っている。この制度改革のために費やされた時間と労力が本来の研究教育に振り向けられていれば、どれはどの学術的アウトカムがもたらされただろう。その虚しく失われた果実のことを思って胸を痛めている大学人は数えきれない。
 しかし、教育行政の担当者たちは「制度改革はもういいから、私たちを研究教育に専念させて欲しい」という大学人だちからの訴えを一蹴してきたし、これからも鼻先であしらい続けるだろう。なぜか。「無謬神話」に居着く官僚たちは決して自分たちの失敗を認めないということもあるけれど、それだけではない。政府は過去四半世紀に及ぶ制度改革を実は「成功」として総括しているからである。不条理な話だが、そうなのである。そうでなければ話の筋が通らない。
 私たちが「失敗」と見なす今までの教育制度を彼らは「成功」と見なしている。どこかに決定的なボタンの掛け違えがある。そして、今回の任命拒否は、日本政府が過去のすべての試みを「成功」と総括したならば、その必然的なコロラリーなのである。
 政府がこれまでめざしてきたのは「日本の学術的発信力の向上」ではなかった。当然そうであるはずだという私たちのイノセントな前提そのものが間違っていたのである。政府は大学にどうして「こんな無意味なこと」をさせるのかという問いの立て方そのものが間違っていたのである。政府がしていることには意味があったのである。
 政府がめざしてきたのは、権力と緊張関係を持つ可能性のあるすべての国内的な組織の独立性を奪い、下部組織として支配体制に組み込むということである。彼らにはわが国の学術的発信力の向上より優先する政治目的があり、それを目指し、それにはたしかに成功したのである。たとえ国力が衰微しても、国際社会における知的威信を失っても、それでも達成したい政治的目標が彼らにはあり、それを達成したのである。発想の切り替えが必要だ。教育に関するこれまでの政府による制度改革の目的は日本の学術が国際的に高い評価を得たり、それによって人類の進歩に貢献することではなかった。政府が国力の衰微を代償にしても手に入れようとして、実際に手に入れたのは統治コストの最小化である。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?