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「『自由』の危機」(集英社新書)よりヤマザキマリ 著 「世間体の戒律」から自由になるには を読んだ

 菅政権の「日本学術会議への任命拒否」問題を巡って多くの筆者がコメントを寄せて編集されたものが本書「『自由』の危機」である。その中でもヤマザキマリさんの論考がひときわわたしの感覚にピッタリきたので少し長いが、紹介したい。

 特に、最後の部分の「安易に『自由がいい』と言いますが、自由の扱いはとても難しいもので、自由になるためにはまず怠惰であってはいけません。群れて誰かに決断を任せていた方が楽ですが、それは自由な状態とは言えません。自分が帰属するものに何もかも委ねることを拒否することが自由なのです。ですから、本当の自由とは孤独との共生であり、孤高であり続ける覚悟を必要とします。
 自ら考えることを放棄している人や、自分で自分を守ることが面倒だと思う人は、自由を望まない方がよいのかもしれません。実は、自由こそが大変困難なものであり、精神的に成熟していなければ、到底扱うことができないものです。単に「自由を守る」と主張するだけではなく、こうしたことも心に留めておく必要があると思います。」という筆者の考えに強く賛同します。

「第2章 文化芸術の自由は誰のためにあるのか」より

文化芸術は「なくてもいいもの」なのか

 私が日本における文化芸術の自由について疑問を持ち始めたのは、コロナ禍においてが初めてではありません。文部科学省が国立大学の文系学部の廃止を通達したいうニュースが海外でも報道され、「日本では、利便性や経済的生産性がないとみなされた学術はすべて排除してよいと考えられているのか」と、物議を醸しました。なぜなら、西洋では紀元前のギリシャ哲学以来、あらゆる経済活動や生産性の基軸となるのは人文系の学術であるとされているからです。ところが、日本の政府はそうした基軸となる学問を生産性がないと短絡的に判断し、あまつさえ排除しようとしている。結果的にこれら一連の報道は経緯を見誤ったものでしたが、政府が文系学部を軽視している傾向は否定できず、私はそのことに大きなショックを受けました。
 そのショックを自分の中で消化しきれないうちにコロナ禍になり、ヨーロッパ各国は苦境に陥ったアーテイストヘの支援策をいち早く打ち出しました。これはヨーロッパだけのことではありません。アメリカ、カナダ、シンガポール、アラブ首長国連邦、オーストラリアなど世界の国々が次々とアーテイストたちへの緊急支援を進めていた2020年3月時点、日本は具体的な文化芸術支援を何一つ表明していませんでした。日本では、芸術を含めた人文系学術は、経済的利便性と直接つながる理系の学問より下に見られている、もっと言えば、なくてもいいものという扱いを受けていることをまざまざと見せつけられた気がします。
 こうした学術の扱いは、教育でも言えることです。私は自分の子どもをいろいろな国で育ててきましたが、日本のように、学術を社会に出ていくための学歴を手に入れる手段と捉え、にわか作業で知識を頭に詰め込んでよしとする国はどこにもありませんでした。
 結局、文化芸術というものの重要性がまだ日本人の根底に入っていないということなのでしょう。確かに、文化芸術を愛でる環境という点では日本は非常に恵まれていますが、それはあくまで大衆文化として自分たちが慣れ親しむという域にとどまっています。それに対し西洋では、宗教画にしても教会建築にしても、文化芸術は社会の統制を担うひとつの機能を成していたわけで、社会における重みがまったく違うのです。たとえば、メルケル首相が2020年5月9日に行った演説で「私たちは文化芸術によってさまざまな心の動きと向き合い、自ら感情や新しい考えを育み、また興味深い論争や議論を始める心構えをする」と文化芸術の重要性について述べたように、西洋の人々にとっての文化芸術は、たとえば何か自分たちが知らないものを提示されたときに、そこからどう自分の考えを深めていくのかということにつながるものと言えます。ヨーロッパでは何千年も時間をかけて文化芸術の重要性が培われてきたのだということを考えると、日本の文化芸術に対する意識が変化するまでには、もう少し時間がかかるのかもしれません。

 精神が劣化した人間の怖さ

 日本と違い、なぜ世界各国では文化芸術への支援がスピード感をもって進められたのでしょうか。たとえばドイツは最大500億ユーロ(約6兆円)とヨーロッパでも最大級の財政パッケージを組んでアーテイストの支援を行いましたが、その理由としてモニカ・グリュッタース文科相は「(特にコロナ禍のような社会が脆弱(ぜいじゃく)化した状況においては)アーテイストは生命維持に必要不可欠な存在である」と述べています。そんなふうに政府が自分かちの価値を認め、生活を支える政策を速やかに実行してくれたら、文化芸術に携わる人々はやはり激励された気持ちになるはずです。一方、コロナ禍で仕事がなくなり、支援もなかなか届かない状況に置かれた日本のアーテイストたちは、「世の中にとって、自分たちはなくてもいいに等しい存在なのか」と悲観的にならざるを得なかったのではないでしょうか。
 経済的生産性がなければ排除してよいというのは先進国の考え方とは言えませんし、そもそも「先進国イコール経済的発展」という日本の姿勢に、私は大いに疑問を感じます。
 日本では、経済的に豊かになり、人々の体が健康であればよいという考え方が主流です。それがゆえに、文化や芸術はあってもなくてもよい余剰とみなされてしまうのでしょう。しかし、ただ金さえあればいい、お腹がいっぱいになればいいというわけではありません。なぜなら、人間は体だけの生き物ではないからです。

 精神が劣化し野蛮化した人間の怖さは、たとえば100年前のドイツに見ることができます。当時、同時期に起こったスペイン風邪のパンデミックと第一次世界大戦によって多くの人目を失い、敗戦国として多額の負債を課せられたドイツの人々は「ただ生き延びられればよい」というある種の野蛮性に基づいた発想しかできない状況に置かれていました。そこに現れたのが、飛び抜けた言論的リーダーシップを張れる男、ヒトラーです。脆弱化しか社会の中、ドイツ国民はヒトラーが説く理念がどのようなものかということより、とにかく自分たちを生き延びさせてくれるのはこの人だと、彼についていってしまった。その結果、何が起こったかは言うまでもないでしょう。
 こうした事例は歴史上、枚挙に遑(いとま)がありません。宗教の発生、あるいは強力なりリーダーシップを取れる人間の登場はすべて、そうした脆弱化した社会で民衆が心のよりどころを必要とする状況から生まれたと言えます。そしてそれは、恐ろしい出来事の引き金になりかねない側面があるわけです。
 こうしたことを踏まえれば、やはり体だけではなく脳の感受性に対しても栄養をきちんと与えないといけない、ということになります。そして、その栄養となるものはやはり芸術であり文化なのです。

 日本人を縛る「世間体の戒律」

 これは文化芸術に限らないことですが、日本における自由について考えていくと、「世間体の戒律」というものに行き当たります。世間体の戒律は、どこかに明文化されたものがあるわけでもなく、その都度その都度の社会的な傾向や人々の言動によって、なんとなく象(かたど)られてきたものだと思います。そうした不透明なルールを自分たちの判で解釈していかなければいけないというのは、非常に難しいことです。
 厳しい戒律というとイスラム国家の例を思い浮かべますが、日本は宗教国家ではないにもかかわらず、「こういうことをすると、世間からあれこれ言われる」という縛りが非常に強く、「戒律」から外れた人間に対するジャッジも厳しい。統制が強い社会主義国よりよほど自由を許されない窮屈さを感じます。コロナ禍になったことで私は家族がいるイタリアにも帰れず、一年以上も日本に滞在し続けていますが、個人的なそうした事情も含め、これまで生きてきた中でこんなにも自由が許されなかった期間はありません。
 とはいえ、私は世間体の戒律自体がいけないと思っているわけではありません。これは長い問日本人が慣れ親しんできた一つの秩序なのだと思います。けれども今、その戒律が厳しくなり過ぎているという気がしてなりません。ネットの責任もあるとは言え、昔であれば言えたことが言えなくなり、何かしようとすれば、すぐにバッシング材料になってしまうなど、表現の範囲がどんどん狭まっていると感じます。たとえば、1970~80年代のメディアにはもっと言論の自由があったと思いますが、その自由は今、差別や偏見という言葉に置き換えられ、少し触れただけで爆発するようなものなってしまっています。皆がそのことを恐れ言いたいことがあっても我慢し長いものに巻かれている安堵(あんど)を選らぷ状況が生まれている。これはけっして望ましいこととは言えません。
 ヨーロッパではたとえ家族同士でも批判をぶつけ合うことが日常的で、学校でも自分の考えを述べることに価値があると教えられます。子どもたちはそうした日々の体験を通して、人間はやはり発言しないといけない生き物なのだということを理解していくのですが、これは日本の教育に欠落している部分だと言えるでしょう。自由に生きるためには、やはり教育の段階で、長いものに巻かれずに自らの意見を発言し、行動する訓練が必要なのです。コロナ禍で世界のリーダーたちが発言したとき、安倍首相(当時)が不安を抱えている国民に対し、責任感や説得力のある言葉を発信できなかったのは、非常に象徴的だったと思います。
 日本に根付いていないのは文化芸術の重要性だけではなく、民主主義も同様です。民主主義とはどういうものか、日本は明治以来、既に民主主義が完成した西洋諸国から学んできました。それらの国々が2000年以上の歴史の中で試行錯誤しながら民主主義を築いてきたことを考えれば、日本はまだ過渡期にあるということでしょう。こうした状況をすぐに変えていくのは無理かもしれません。今後50年、100年かけて変わっていくのだろうと考えています。
 まずは、「これではいけない」と気がついた人から、少しずつ改革をしていけばよいのではないでしょうか。これは私自身が日本で子育てをしたときに経験したことですが、表面上は「世間体の戒律」に従わなければならない状況があったとしても、自分の内面にある違和感を持ち続けていくことが大切だと感じています。異論を保ち続けるというのは面倒で厄介ではあるけれども、それに慣れていくことによって多角的に事象を捉えるスキルが鍛えられますし、その積み重ねがやがては日本や日本の国民に適した民主主義をつくり上げ、強固なものにすることにつながっていくと思います。

 利他性をもって声を上げる

 たとえば森喜朗氏の東京オリンピックーパラリンピック競技大会組織委員会会長の辞任騒動など、日本でも「おかしい」と思ったことに対して声を上げるということが増えてきています。けれども、声の上げ方ということでは、まだうまく調整ができていないという気がします。声を上げることは大事ですが、「そんなことくらい理解できて当然だろう」「どうして分からないのか」と、ただ一方的に声を張り上げても、相手にはなぜ自分が非難されているのか納得がいかないままかもしれません。
 人間、考えていることがそれぞれ違うのは当たり前です。私は14歳から世界各地を旅してきて、自分のことを分かってほしくても、自分の価値観を共有したくても、それが叶わなかったという経験を嫌というほどしてきました。日本も含めて世界のどこにいても私にとってはアウェーだという感覚がありますが、そこで生きていくためには声を上げつつも価値観の違いを認識し、「ここではこういう考え方が当たり前なのか」と相手から学ぼうとする利他性が必要なのです。
 なんとしてでも自分が信じていることを相手も信じてくれないと納得がいかない、と思い込むからおかしなことになるのであって、相手が間違っていると思うのではなく、価値観が違うと受け止めればいい。「この人は自分が思いもしないようなことを考えているんだな」と俯瞰的に見て、受け入れていく。そうやって相手を慮(おもんばか)りながら柔らかく対話をしていけば、お互いに気づきを促すこともできるのではないかと思います。特に、これから日本が多様な価値観を受け入れていく時代を迎えるのだとしたら、こうした利他性を育むことは非常に重要になっていくはずです。

 怠惰であっては自由になれない

 自由になるには向き不向きがあると思います。広い大陸で刻々と場所を変えていきながら生きていく遊牧民のような人たちにとっては、自由を選択して生きるほかはないわけですが、日本は村社会の中で長いものに巻かれている方が楽でいいという性質が強い国ですから、多くの日本人は自由が苦手で、自由になるとどうしていいか分からなくなるというところがあるのではないかと感じます。
 安易に「自由がいい」と言いますが、自由の扱いはとても難しいもので、自由になるためにはまず怠惰であってはいけません。群れて誰かに決断を任せていた方が楽ですが、それは自由な状態とは言えません。自分が帰属するものに何もかも委ねることを拒否することが自由なのです。ですから、本当の自由とは孤独との共生であり、孤高であり続ける覚悟を必要とします。
 自ら考えることを放棄している人や、自分で自分を守ることが面倒だと思う人は、自由を望まない方がよいのかもしれません。実は、自由こそが大変困難なものであり、精神的に成熟していなければ、到底扱うことができないものです。単に「自由を守る」と主張するだけではなく、こうしたことも心に留めておく必要があると思います。


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