見出し画像

「新型コロナ『正しく恐れる』Ⅱ」西村秀一(藤原書店刊)を読む 1

 新型コロナ・ウィルスに関する本として、久々に読んで納得できる本だった。(ワクチンに関する以外は。これは、医療関係者であるから仕方がないのかもしれないが・・・・)以下、そのとおりと思った箇所を紹介したい。

第1章 見えてきたウイルスの実態

1 「過度」な対策、「不適切」な対策

子どもへの過度のプレッシャー

 大学で小児科学の教授をしている親しい友人がいるのですが、彼がこの冊子(『コロナのコロ』大宅壮一文庫発行)に子どものコロナについていろいろ書いてくれています。子どものコロナはほとんど風邪と一緒だから心配することはないと。いままで何万人も感染者が出ているけれども重症化したのはほんのわずかですよ、とその数字まで示して。それにもかかわらず、小学生はいま、感染対策のすごいプレッシャーのなかでがんじがらめにされているでしょう? 感染管理の名のもとに大人と社会から強制され、あるいは思い込まされて。
 子どもに過度な対策は必要ないんです。世の大人たちはそういうことがわかっていません。子どもが感染したら大変だと騒いで、たった一人の濃厚接触者が出ただけで学校を閉鎖したりしている。それはおかしなことです。この一年間でわかってきた、恐れる必要のないことです。にもかかわらず対応がぜんぜん進歩していない。
 この感染症は年齢によって病態が違うことがわかっているのに、それに対する考え方が統一されていない。聞いた話ですが、ある小学校では濃厚接触者が出ても休校まではしなかった。そうしたら親の間で「なんて休校にしないんだ!」「どうして休校も消毒もしないのか」という声がLINEなどで駆け巡ったそうです。本来は学校(長)が丁寧に説明しないといけなかった。感染管理の理屈と子どもたちの学びのことを考えれば正しいことをやるうとしているのですから、むしろそういったことを前面に出して保護者たちを説得しなければならない。それがないと、現状ではそういったことまで思い至っていない一部の恐れ過ぎの保護者たちが、不安になって当然です。
 感染対策としては、そういうことをしなくても大丈夫です。それなりの説明をすればわかる話です。でも一般の多くの人はそう思わない。ぜんぜん学んでいないといいますか、恐れるべきは何か、恐れる必要のないことは何かがいまだに一般論として浸透していません。これは一般の人たちの問題なのか、指導すべき立場にある人たちの問題なのか、とにかくこれは大きな問題だと思います。

「遺体」への警戒は不要

 恐れ過ぎの問題をもう一つ言いますと、コロナで亡くなった方の遺体の取り扱いです。相変わらず必要のないことをしていますし、本来必要であるはずの遺族の気持ちへの配慮を欠いています。ネット情報で知ったのですが、北海道では遺族がお骨を拾うことも許されないところがあるといいます。遺族がたくさん集まると、もし感染者がいたらリスクがあるから、といって。お骨拾いは2~30分もやるわけじやなし、マスクをしてほんの短い時間やるだけで何が危険なのでしょうか。そんな場所で感染したという事例がこれまでありましたか?
 ずっと言い続けていますが、そもそも遺体から感染などしません。これまでの知識と経験から学んでいない。この一年余りでコロナは接触感染よりも主に、空中に浮く飛沫であるエアロゾルを空気とともに吸い込む、エアロゾル感染すなわち空気感染だということがわかってきたのに、相も変わらず手洗いだの雑巾がけだのアルコール消毒だの、でしょう。スーパーの感染対策も一年間変わっていませんね。レジにビニールシートを張って、お金を受け取るときは手袋して。はっきり言って感染防止の役には立ちません。これも世の人々を指導する立場の人や組織、すなわち行政やメディアがまったく変わらないからだと思います。一言で言って「勉強不足」です。
 政府や自治体、メディアに対して影響力のある。専門家”がこれまでの自分たちの指導に固執しているんです。そしてそれらが往々にして間違っているんです。飲食店でアクリル板のパーテーションを設けて、アルコール消毒をしなさいとか。コロナの感染様式を考えたら有効な対策ではありません。本当に学んでいない。
 私なりに事あるごとに発言してきたつもりですが、それくらいでは残念ながら声が小さ過ぎるといいますか、影響力がなさ過ぎるといいますか、なかなか通じませんね。

不要な対策は捨て、真に必要な対策を

 必要のないところで労力を使って疲弊している。改まる気配がありません。冬の厚着を脱いで涼しい衣服で過ごせるのに、また上に着込んで十二単みたいな服装になっているようなものです。軽くしていいところを軽くしないから、思い込みの感染対策加雪だるま式に増えていって重くなって、にっちもさっちもいかないことになっている。
 いらない対策は脱ぎ捨てていくべきです。本当に必要な対策をきちっとやっていくことが大事なのに、いつまでも余分な対策を抱え込んで疲れ切っている感じです。空気感染の認識が広がってきたのはよいのですが、じやあこれまでやってきた不必要なおかしな感染対策はどうかといえば、いまだにやめられずにいます。やはりゼロリスク志向といいますか、感染の確率は低いけれども可能性はあるのでやっておきましょう、ということになっている。そうすると次から次へと重荷を背負っていくことになる。やり切れないですよ。
 屋外でやる花見までどうでもいいような規制をしている。ナンセンスです。飲食店での感染シミュレーションも極端な事例ばかりでしょう。まだ感染の実態がわからない時期に警告のために見せるのならいいのですが、1年が過ぎて様々な情報が蓄積しているのだから、改めるべきところはどんどん改めていかなくちゃいけない。それなのに1年前に決めた対策をいまだに続けている。アクリル板だ、ビニールカーテンだのといろいろ。アクリル板だって安くないでしょう。実際にはあまり意味のないものに皆がお金をかけて。経済的負担はバカにならないですよ。
 デパートやスーパーの入り口ではアルコール消毒液で手を消毒することも変わらず行われていますね。私はあまり意味はないと言い続けているんですが。あれだってすごいコストでしょう。経営を苦しくしているだけじゃないでしょうか。アリバイ的な面がある措置ですよね。ちゃんと感染対策をしていますよ、と見せるための。だからやめられない。どうせアリバイなら水を半分ぐらい混ぜてやったっていいくらいです。専門家から発言があってもよいはずですが、これの意味のなさを理解できていない”専門家”が多いのか、理解していながらこれまでの自分の意見との整合性を保つために誤りを修正しないのか。前者であれば専門家の看板は外すべきだし、後者であれば、何と言ったらよいのでしょうか?

「正しい」体温測定ができているか?

  一種のアリバイ行為のような感染対策がよく見られます。私か通っているスポーツクラブでは入場する際に体温測定装置で発熱しているかどうかチェックしているのですが、この装置が狂っていて、いつもとんでもなく低い値が出ます。でもクラブの従業員は誰も気にしない。実質的には役に立っていないけれども、装置を置いていることに意味があるという感じです。

 体温でチェックすること自体は実効性の面では間違ってはいないんです。体温がちょっと高いと思ったら用心した方がいい。体温をチェックすることには反対しません。実際うちのラボ(研究室)でも毎朝、全員に体温測定は義務付けています。体温が高いときはちょっと考えましょう、と。そのきっかけとしてはいいのですけれども。
 でも、測定装置が狂っていたら何の意味もない。よく建物の入り口で非接触型の体温測定装置で、おでこや顔全体の温度で体温チェックをやっているのを見かけます。でも、冬は外からやってきた人は死にそうな人と同じくらい低体温の判定になるし、夏は夏で逆に健康人が発熱患者まがいの高熱判定になったりします。笑えそうで笑えない話です。
 先のアリバイ的アルコール消毒に関して言えば、ウイルスセンターでも、実験直後に実験台を消毒するルールはありますし、あるいは消毒が必要となった緊急時にはやることにはしていますが、そうでない限り定期的な環境のアルコール拭き消毒なんてまったくさせていませんよ。病院の手すりなんか日に何度もアルコールで磨いてどうするんだ、と私は言っています。そこにウイルスはいません。そういうウイルス学の常識がなかなか一般社会に伝わりません。誰が悪いのでしょうか。もし私かそういうことを広められる立場の人間だったら声を大にして言うのですが。本書はそうした活動のひとつです。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?