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物語の中を一緒に生きよう

2023年12月3日(日)徳島北教会 アドヴェント第1主日礼拝 説き明かし
マルコによる福音書1章1-11節(新約聖書・新共同訳 p.61、聖書協会共同訳 p.60)
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最後に動画へのリンクもあります。「読むより聴くほうがいい」という方は、そちらもどうぞ。

▼マルコによる福音書1章1-11節(新共同訳)

 神の子イエス・キリストの福音の初め。
 預言者イザヤの書にこう書いてある。
 「見よ、わたしはあなたより先に使者を遣わし、
 あなたの道を準備させよう。
 荒れ野で叫ぶ者の声がする。
 『主の道を整え、
 その道筋をまっすぐにせよ。』」
 そのとおり、洗礼者ヨハネが荒れ野に現れて、罪の赦しを得させるために悔い改めの洗礼を宣べ伝えた。ユダヤの全地方とエルサレムの住民は皆、ヨハネのもとに来て、罪を告白し、ヨルダン川で彼から洗礼を受けた。ヨハネはらくだの毛衣を着、腰の革の帯を締め、いなごと野蜜を食べていた。
 彼はこう宣べ伝えた。「わたしよりも優れた方が、後から来られる。わたしは、かがんでその方の履物のひもを解く値打ちもない。わたしは水であなたたちに洗礼を授けたが、その方は聖霊で洗礼をお授けになる。」
 そのころ、イエスはガリラヤのナザレから来て、ヨルダン川でヨハネから洗礼を受けられた。水の中から上がるとすぐ、天が裂けて“霊”が鳩のように御自分に降って来るのを、御覧になった。すると、「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」という声が、天から聞こえた。

▼悲しみと喜びの両方を抱える

 アドヴェントに入りました。クリスマスに向けて、キリスト教会は4回前の日曜日からアドヴェントの時を祝います。今年は12月25日(月)のクリスマスの前日、24日(日)が第4のアドヴェントの日曜日なので、今日は第1のアドヴェント礼拝。1本目のロウソクが灯りました。
 アドヴェントというのは、「来る」、「到来する」という意味のラテン語です。もうすぐキリストが「来る、やってくる」ということを待ち望む季節のことで、日本語では「待降節」、つまり、降りて来ることを待つ。イエス・キリストが降誕することを待つという意味で、「待降節」という呼び方をするようになっています。
 そういうわけで、アドヴェントというのは、もうすぐ喜びの時がやってくるのを、ワクワクして待つという季節です。
 2023年はまだあと少し残っていますけれども、この11カ月余りの間でも、いろいろなことがありました。特に、教会に連なる私たちと深いつながりを持つ幾人もの方々が、次々とこの世と別れを告げられたのは、悲しく、寂しいことでした。
 私は、年寄りというほどではありませんけれども、若くもありません。歳をとるごとに1年1年が早く過ぎてゆくように感じられ、この1年間のできごとも、あっという間のことであったように思います。それだけに、そんな寂しいできごとも、ついこの前のことであるように感じられ、なかなか気分がパッと切り替わらないんですね。
 いつまでも、暗い顔をしていることを、先立たれた方々が望んでおられるのかと思うと、そうでもないかもしれないと思いますし、元気を出して生きてゆく方が、亡くなられた方々も喜んでくださるのではないかなと思ったりもするのですが、その一方で、悲しい時には、しっかり悲しんだ方が自分にはいいような気もしますし、静かな気持ちでいたい時には、静かな気持ちでいてもいいんじゃないかと思ったりもするんですよね。
 しかしその一方で、例えば旅立っていかれた弓子さんと入れ替わりのように、山﨑さんに新しいお孫さんの命が誕生したことなど、嬉しいこともありました。また、24日(日)のクリスマス礼拝では、私たちの教会の新しい仲間が増えます。そしてその礼拝の後には、これからを生きる子どもたちを迎えてのクリスマス会も行われます。
 悲しみと喜びの両方を同時に味わいながら生きてゆくというのは、時折私たちの心に困難を与えますが、この複雑な気持ちを抱きながら生きる私たちの心に、神さまが寄り添ってくださることを信じて、なんとか生きてゆきたいと思うのであります。

▼マルコ福音書にはクリスマスの物語がない

 そんな年の瀬を思う季節、アドヴェントの礼拝を守り、クリスマスのお話をしたいと思います。
 今日お読みしたのは、マルコによる福音書のいちばん最初の場面です。お気づきになっていらっしゃるのではないかと思うのですが、マルコの福音書には、クリスマスの物語がありません。イエス様の誕生の場面が描かれていません。
 イエス様のお誕生の様子は無しで、まずはイエス様の先駆者であるバプテスマのヨハネが登場して、「自分のあとに本物の救い主がやってくるんだ」と言います。そして、いきなり大人のイエス様が登場してきて、ヨハネの手で洗礼を受けます。赤ん坊のイエス様も、少年時代も出てきません。
 ある学者の本によれば、古代の英雄物語には大まかに言って2種類あって、1つは英雄の奇跡的な誕生から描こうとするもの。もう1つは英雄の公的な活躍の生涯から話を始めるものがあって、マルコはこの2番目の、イエスの公的な生涯から話を始める形式を選んだのだということです。
 しかし、じゃあなんでマルコは、公的な生涯から話を始めようとしたのか。マタイによる福音書やルカによる福音書は、それぞれイエスの奇跡的な誕生から話を始めていますが、一番最初に描かれたマルコは、なぜ誕生物語を描いていないのか?
 ここから先は、学者ではない私の推測なのですけれども、マルコはイエスの誕生のいきさつを知らなかったんではないでしょうか。知らなかったというと雑な言い方になりますが、要するに、マルコにはその情報が無かった。マルコのところにはイエスの誕生を伝える資料が届いていなかった。あるいは、それは重要な意味がないとマルコが考えたか。そのどちらかではないかと思われます。
 例えば、このマルコは、自分の福音書の一番最後の部分でも、イエスが死んだあとについて、イエスの遺体を収めたお墓が空っぽになっていた……という事実を書いただけで、話を終わりにしています。蘇ったイエスの肉体などは描いていません。
 これも、お墓の中の遺体が無くなっていたという事実以外の情報が、マルコの手元には無かったから。あるいはイエスの肉体が復活したという話を聞いてはいたけれども、あまり重要なこととは思わなかったということなのではないかと思われます。

▼イエスの誕生は謎

 一方、マルコの福音書よりおよそ30年後に書かれたマタイの福音書、ルカの福音書には、クリスマスの物語が書かれています。どちらも、男性と関係を持つ前に赤ん坊を産んだマリアさんのお話を記していますし、マタイには、イエスのお父さんを引き受けることになるヨセフさんの夢に天使が出てきて「生まれてくる赤ん坊を受け入れなさい」というお話が出てきますし、東の方から星占いをする博士たちが赤ん坊を拝みに来るという話も書かれています。
 ルカには、天使ガブリエルがマリアさんに「あなたのお腹の中には赤ん坊がいるんですよ」とお告げをし、赤ん坊が生まれたら、荒れ野で羊の世話をしていた羊飼いたちに天使の大軍が現れて大合唱を響かれ、びっくりした羊飼いたちが赤ん坊のところに訪ねて来るというお話が書かれてあります。
 すべて、全く科学的ではありません。おそらく実際にあったことではなく、神話として人びとの口伝えで出来てきた伝説でしょう。
 ということはマタイもルカも、実際に何があったのかは知らず、人から聞いたこと、あるいは人びとが言い伝えたことを書き留めていた資料を参考に書いたのだということになります。
 つまり、実はマタイもルカも、実際に何があったのかをよく知らずに書いているということになりますね。ちまたに広がっていた伝説めいた話、それが教会で言い伝えられた、それを編集して、自分の福音書の最初の場面として組み込んだということでしょう。
 マタイもルカも、事実を知らずに書いている。そういう意味では、マルコと一緒です。ただ、マルコはイエスの誕生のいきさつなど、知らなくても問題ない、そんなに値打ちがある話ではないと思っていたから、書かずのままで福音書を編集したのに対し、マタイとルカはとても大事だと考えたのでしょうね。
 イエス様の誕生は、本当のところは謎のままです。
 イエス様には、母親のマリア様だけでなく、生物学的な父親が存在したはずで、しかもたぶんナザレという被差別部落のように差別されるような貧しい村に生まれた。
 そして、おそらく30歳ごろに、ふらっとバプテスマのヨハネの所にやってきて、そしてバプテスマ(洗礼)を受け、ヨハネの弟子になった。それ以降はある程度はわかってはいるのだけれど、そこまではわからないのですね。イエス様も、自分のことを多くは語らなかったのでしょうね。
 だから、最初の福音書であるマルコには、その情報が記されていないわけです。

▼ストーリーとナラティヴ

 さてそれでは、私たちがクリスマスをお祝いするのは、非科学的で非現実的なお話を信じ込んで、騙されているようなものなのでしょうか……。
 たとえば、7月に七夕という行事がありますよね。あれは織姫と彦星が年に1回、天の川を渡るという出来事。それが、本当に夜の空で起こっていると思って、みんなは七夕をやっていますでしょうか? たぶん、そういうことが起こっているのを、望遠鏡か何かを使って観察できるというようなことは誰も考えていないと思います。
 サンタクロースもそうですよね。何歳までサンタさんがいると信じていたのかは、人によって違うと思いますが、たとえサンタが実在の人物でないとわかってからも、やっぱり私たちはサンタクロースがクリスマスに現れることを楽しみにしていて、「今年は誰がサンタを演じなきゃ」と選びますし、また子どもたち自身も、ある程度の年齢になったら、サンタは誰かがその格好をしているとわかっているんだろうけれど、それでもサンタの登場を待っているんですね。
 この七夕やサンタクロースというのは、一種の「物語」です。英語で言う「ストーリー」という意味の「物語」ではないんですね。そうではなくて、この種類の物語のことを「ナラティヴ」と言います。「ストーリー」というのは、小説や映画のように、客観的に鑑賞できるような物語ですけれども、「ナラティヴ」というのは、その物語の中に、自分も参加して、いっしょに物語の中に生きていくような、そういう物語のことです。
 たとえば聖餐式も一種の「ナラティヴ」です。科学的には、パンが肉になって、ぶどうジュースが血になるわけではありません。でも、そのパンをイエスは「私の肉である」と言った。そのぶどう酒をイエスは「私の血である」と言った。だから、それを私たちはイエスの肉であり、血である、それによって私たちはイエスの命を自分の中にいただく……という物語(ナラティヴ)の中に参加して、その物語の中に生き、その物語を再び語りついでゆく、というわけです。

▼クリスマスのナラティヴ

 そして、クリスマスです。
 クリスマスは、大きく、おおまかに言えば、神さまが、人間の姿をとって、人間の間に生まれてくるという物語(ナラティヴ)です。
 神さまが神のままであることを望まず、人間として生まれて、人間として生き、人間としての苦しみや悩み、そして喜びを味わって、人間として死んでゆく、そのためにこの世に生まれてくださった。そういう物語(ナラティヴ)です。
 イエスが父親なしに生まれたということも、イエスの誕生に当たって、超自然的な出来事がたくさん起こったということも、全てこの「神が人間として生まれた」ということがいかに奇跡的なことであるかを表そうとした、古代の人たちが編み出したナラティヴです。
 もちろん、個々の物語には問題があると指摘する現代の神学者もいます。
 たとえば、マリアさんが父親なしにイエス様を産んだというストーリーは、性というものを汚らわしいと思う、あるいは男性と関係を1度でも持ったことのある女性は汚れているという、古めかしい考え方であって、そんあ考え方を現代のクリスチャンがそのまま受け入れるわけにはいかない、と言う神学者もいます。
 それはそれで当たっていると思います。
 しかし、確かにそれは古代人の感覚がベースになってはいますけれども、なんでそういう不思議な物語を作ろうと思ったのかというと、それは「キリストがこの世に生まれたということが、いかに不思議なことであったか」ということを表したいという思いがあったからでしょう。
 大事なことは、「神が人間としてこの世に生まれたという奇跡の物語が今も続いていて、その中に私も参加している」という感覚を持つことです。
 そして、「その神さまは人間になって来てくれたのに、私たちの社会にはびこる罪によって、私たちが殺してしまった。けれども、いまは復活して私たちの間に生きている」という物語。「そうやって神は、いつまでもわたしたちのそばにいようとしてくれている」という物語の中に、私たちも参加して、そのことを私たちの心の中にある真実としてお祝いしようじゃないかということなんですね。

▼ナラティヴの中を一緒に生きる

 神は人間と同じ喜びを味わい、悲しみ、苦しみを味わおうとして、人間としてこの世に赤ん坊として生まれ、人間としての人生を始められた。
 それは科学的にはありえないことです。しかし、私たちは科学的な思考だけで生きているわけではありません。科学的にではなく、人の心から心へと語り継がれてゆく物語の中に生きることによって、味わうことのできる世界なんですね。
 そのことによって私たちは、私達に徹底的に寄り添おうとしてくださった神のイメージを心の中に抱くことができますし、そのイメージが心のなかにできて、それが自分の人生の中で意味を持ち始めたら、それはもう「信じる」「信仰している」ということだと思うのですね。
 そして、それは独りぼっちで心に抱くイメージではなく、人のつながり、集まりの中で共有してゆく。その場所が「教会」「キリスト教」というものだと思うんです。
 クリスマスはキリスト教の暦では、1年の始まりです。1年の始まりに、神さまがこの世に生まれたということをお祝いする。そうすることで、イエスの人生の物語の中を一緒に生きるということを始める。そういう思いでクリスマスを迎えたいと思うのですが、いかがでしょうか。
 お祈りをいたしましょう。

▼祈り

 私たちにいつも寄り添ってくださる神さま。
 あなたの御子イエス・キリストがこの世に来られたことをお祝いする日が近づいてまいりました。
 私たちの間には悲しいこともあり、また嬉しいこともありました。また、日本の社会、世界の社会を見渡しても、血なまぐさい戦争、貧困、差別、暴力などのある一方で、小さな喜びを支えに生きている方々もきっとおられるでしょう。
 どうか神さま、全ての人のそばにいてくださって、その人を支え、守ってください。
 全ての人のそばに寄り添うなどということは、普通の人では無理なことです。
 どうか神さま、あなたの無限の力により、全ての人のそばに寄り添って、共に生きてくださいますようにお願い致します。
 そしてこの教会が、このクリスマスに、イエス・キリストをこの世に迎えるに相応しい、愛に満ちたものとなりますように、お導きください。
 語りつくせぬ感謝の思いと共に、この感謝と願いと、イエス・キリストの名によっておささげいたします。
 アーメン。
 


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