見出し画像

天皇制を批判すればキリスト教にも返ってくるという話

 よく天皇制の批判をするが、実は頭の片隅で「それはキリスト教にも言えることなんだけどな」という呟きも意識している。またそのような自己批判の精神がないと、天皇制批判も独りよがりの空振りに過ぎない気がする。

 まず、天皇制を批判する時、よく「人間を神にしてはいけない」と我々は言う。しかし、我々の信仰の始まりは、ナザレのイエスという1人の人間を神格化した所から始まっている。「それは違う。イエスは本当の神であり、天皇は本物ではない」と言うクリスチャンもいるだろう。しかし、それは単に信仰対象が違うだけで、客観的にはやっていることは非常によく似ている。

 次に、我々はよく「神話と歴史を混同するな」と言う。初代の神武天皇は歴史的に実在したかどうかはわからない。また彼は、神々の子孫(天孫)だというが、それは科学的にはあり得ない。そもそも「歴史」とは昔に遡れば遡るほど神話化してゆくものだ。旧約聖書でも、天地創造物語は明らかに神話だし、アブラハムやモーセといった重要人物も実在したとは言い切れないと私は思っている。

 そして、何より明治期の大日本帝国による国家神道は、実は欧米のキリスト教を大いに模倣したものではないかと疑われることだ。君が代を賛美歌として歌い、教育勅語を聖書として読み、皇帝(天皇)を神の子として崇める。そのことによって神聖なる国への忠誠を養う。このマインド・コントロールの方法を、大日本帝国政府は多くの留学生を送り込んだヨーロッパから学んだ。

 そういうわけで、雑駁ではあるが、近代天皇制や国家神道とキリスト教は双子のようなものだと言える。似ているからこそ、互いに必死に排除し合うのだろう。国家神道の日本支配のためにはキリスト教が最も邪魔な存在であるから、政府は手を変え品を変えキリスト教に圧力をかけてきた歴史がある。同様にキリスト教も、国家宗教が国民を支配する有効な手段であることを自らの歴史を通して嫌というほど知っているからこそ、近代天皇制を非難する。

 双方が互いに根本的なところで似ているので、近代天皇制を批判するというということは、返す刀でキリスト教を自ら批判する形で返ってくる。ただ、それでも我々は天皇制を批判する手を緩め、口を閉じることはできない。キリスト教によって政治を支配してはならない(そんなことはこの国ではどだい無理だろうが)のと同じ根拠で、国家神道にも政治を支配させてはならないのである。

よろしければサポートをお願いいたします。